1月1日、愍随が「新年松」という題で左記のように詠んだ歌が『浄土教報』に掲載されました。
年たては 緑いろそふ 心地して
わかやき見ゆる 庭の老まつ
3月22日から4月20日まで、増上寺において黒本尊の開帳および宝物展が開催されました。その会期中の4月7日に行われた法要において、愍随は増上寺77世堀尾貫務大僧正の代理として導師を勤めました。
7月2日、愍随は浄土宗典刊行会より宗典発刊の発起人を委嘱されました。
明治39年(1906)4月、教学院会議において法然上人700年遠忌記念として浄土宗典の出版が協議され、同年8月に宗典刊行会の設立準備が始まりました。同年10月に発表された「浄土宗典刊行会設立趣意書」には愍随の名前も記載されています。そして、この年の12月に『浄土宗全書』と題して発刊されました。本書には浄土学、法然教学の基礎となる資料が収載されています。
彼岸の入りを翌日に控えた9月20日、『東京朝日新聞』の朝刊に六阿弥陀が紹介されました。六阿弥陀とは行基菩薩が熊野山中の1本の杉の木から刻んだとされる阿弥陀如来像を安置する6か寺のことで、西福寺(北区)、慧明寺(足立区)、無量寺(北区)、与楽寺(荒川区)、常楽寺(台東区)、常光寺(江戸川区)です。
春秋の彼岸に詣でて後生を願うと特に利益があると広まり、江戸時代の元禄年間頃から盛んに巡拝されるようになりました。その後、祐天寺2世祐海の頃には江戸の西郊にも六阿弥陀が創設され、こちらは西方六阿弥陀と呼ばれました。祐天寺はその第6番に数えられます。そのほかの寺院は大養寺、善長寺、春林寺、正覚寺、正源寺(いずれも港区)でした。
『東京朝日新聞』が翌々年の春彼岸でも紹介するほど六阿弥陀詣はブームとなり、祐天寺も多くの参詣者で賑わいました。
この年、明治30年(1897)に作成された『明顕山祐天寺規定』に、新たな規定を加えました。その内容は「祐天寺住職には交際費および衣料費として祐天寺が所有する寺有地の所得から毎月10円ずつ支出されること」や、「徒弟に対してもその人数に応じて教養費の名目で支出されること」などです。
この年、愍随はさまざまな役職を任されました。3月4日に東京府浄土宗興教会支部長に就任し、6月20日には教師功績選考委員に選ばれました。続いて8月3日に増上寺寺務所より門末会議員投票開緘立会審査の命を受け、同月10日に立ち会いし、23日に門末僧侶功績選考委員を委嘱され、25日に堀尾大僧正より門末会議員当選の公認状を受けるという忙しさでした。さらに、9月20日には増上寺興隆会常議員を委嘱され、12月10日には浄土宗記念伝道第1支部荏原委員長にも任命されます。そのほか、荏原小教区東部組組長の留任も決まりました。