明顕山 祐天寺

年表

明治38年(1905年)

祐天寺

荏原教務支所長に再任

1月11日、愍随は荏原教務支所長に再任され、新年会の席上で荏原小教区区会議員総代の成田厚元より感謝状および慰労品料2、000疋を授与されました。この慰労品料は、傷病兵慰問の資金として浄土宗臨時賑恤本部へ寄付しました。

参考文献
荏原教務支所長としての愍随の功績をたたえた感謝状、『経歴概記』

善導寺の名号軸、修復

1月、久留米善導寺(福岡県久留米市)の利剣と宝珠の名号軸が修復されました。名号軸の裏には善導寺59世累誉によって、飯田鶴吉が世話人となり、原口団三郎が利剣名号軸、青木利平が宝珠名号軸の施主となったことが書かれています。

この利剣・宝珠名号軸は明和4年(1767)の祐天上人50回忌に、伏鉦と百萬遍数珠とともに縁故者に配られたセットのうちの1つでした。善導寺には明和6年(1769)の春に納められ、名号軸のほかに伏鉦も現存しています。

参考文献
利剣・宝珠名号軸裏書(善導寺)

陸軍、祐天寺に宿営

4月6日、征露皇軍近衛師団第二野戦兵器廠長陸軍砲兵少佐の井上伝吉と砲兵中尉の倉科庄平以下60人の兵士たちが祐天寺に宿営し、同月26日に出立しました。

8月31日には、第一五師団野戦兵器廠長陸軍砲兵少佐の間宮春四郎と砲兵中尉の橋本源次郎、工兵少尉の中村豊太郎以下45人の兵士たちが祐天寺に宿営し、10月26日に出立しました。

参考文献
『備忘概記』

大僧都に

6月15日、愍随は山下現有浄土宗管長より大僧都の辞令を受けました。

参考文献
『経歴概記』

恤兵資金、寄付

7月31日、浄土宗臨時賑恤本部に第2回恤兵資金として7円を寄付しました。

参考文献
『経歴概記』

第一教校へ寄付

8月29日、愍随は浄土宗立第一教校(現、芝中学校・高等学校)へ書籍と器械の購入費用として18円を寄付しました。

12月25日には第一教務所長の廣瀬了眼より、第一教校校舎新築への貢献に対して賞状および折五条袈裟が贈られました。

参考文献
第一教校校舎新築資金寄付への賞状、『経歴概記』

『宗教界』に改題

9月、『宗粋雑誌』が『宗教界』と改題されるにあたり、愍随はその保証金を警視庁に納めました。『宗粋雑誌』とは浄土学の研究雑誌です。明治30年(1897)に望月信亨らが中心となって刊行した『宗粋』が、明治33年(1900)に『宗粋雑誌』と改題され、この年さらに『宗教界』と再改題されました。

参考文献
『経歴概記』

借金、完済

12月19日、愍随は祐天寺住職となる際に引き継いだ祐天寺本堂再建費用などの借金を、全額返済しました。

参考文献
『備忘概記』
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