明顕山 祐天寺

年表

明治36年(1903年)

祐天寺

増上寺興隆会に入会

1月15日、愍随は増上寺興隆会に入会し、増上寺77世で興隆会会長の堀尾貫務大僧正より特別会員証を受け取りました。この会は明治33年(1900)に増上寺の復興を目的として組織されました。

参考文献
『経歴概記』、『浄土宗大年表』

辞令

2月14日、愍随は山下現有浄土宗管長より少僧都の辞令を受けました。また、3月1日には堀尾大僧正より荏原出張所所長に任命されました。

参考文献
『経歴概記』

幻灯機を購入

3月、愍随は布教の近代化を目指し、荏原小教区布教用として幻灯機(スライドプロジェクター)を購入しました。この幻灯機は区内外共有のものとされ、布教に広く活用されたということです。

参考文献
『経歴概記』

『浄土十祖画像略伝』出版

5月10日、愍随は布教用図書として『浄土十祖画像略伝』を出版しました。本書は善導大師をはじめとする浄土宗の十祖を肖像画入りで紹介したものです。肖像画を祐天寺前住職霊俊(祐天寺16世)が、編集を愍随が手掛けました。

参考文献
『浄土十祖画像略伝』(巖谷愍随編、宇田総兵衛発行、1903年)

六番組位牌、再修復

10月、江戸町火消六番組(安政5年・明治16年「祐天寺」参照)の位牌が元な・む・う・ゐ・の・お組の組員からの寄進によって再修復されました。また同時に、その位牌を納める宮殿型の厨子が新調されました。

参考文献
六番組位牌

霊俊、遷化

11月3日、霊俊が小松川仲台院(江戸川区)で遷化しました。79歳でした。法号は愍蓮社贈僧正念誉上人観阿愚雄祐鎧霊俊大和尚です。霊俊は文政8年(1825)に南方市左衛門の次男として日本橋(中央区)に生まれ、仲台院、田戸聖徳寺(神奈川県横須賀市)、浅草誓願寺(現在は府中市に移転)を歴住したのち、明治23年(1890)に祐天寺16世となりました。絵を得意とし、祐天上人絵像を写したり、桑折無能寺(福島県伊達郡)の石碑の地蔵菩薩像を描いたり(明治27年「祐天寺」参照)、『浄土十祖画像略伝』の肖像画を描いたりしました。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

東洋城、句を詠む

「不動出て祐天寺道芒かな」。この年、俳人の松根東洋城が詠んだ句です。
東洋城は築地(中央区)で生まれ、東京帝国大学(現、東京大学)と京都帝国大学(現、京都大学)で学んだのち、明治38年(1905)に宮内省に入りました。東洋城が大正天皇から俳句について尋ねられ、「渋柿のごときものにては候へど」と答えたことは有名です。のちに俳誌『渋柿』を創刊・主宰しました。

参考文献
『東洋城全句集』上巻(安倍能成ほか編、東洋城全句集刊行会、1966年)
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