明顕山 祐天寺

年表

明治35年(1902年)

祐天寺

最勝院、類焼

1月17日、磐城最勝院(福島県いわき市)の本堂、庫裡、鐘楼堂などの堂宇が、磐城大火によってことごとく焼失しました。最勝院28世早川良道は、廃藩置県によって藩からの資金援助がなくなって途絶えそうになっていた祐天上人が開闢した常念仏を、再興しようと尽力していました。

明治33年(1900)3月に、「福島県管内の信徒より1合1銭の喜捨を5年間受けること」を福島県庁に請願して許されると、檀信徒に『祐天大僧正略傳附最勝院常念佛ノ事』というリーフレットを印刷して配るなどして、常念仏の啓蒙に努めます。火事はその常念仏再興の念願がかなう矢先の出来事でした。本堂をはじめとする諸堂宇を失った最勝院は資金を調達できなくなり、常念仏は途絶えてしまいます。

参考文献
『祐天大僧正略傳附最勝院常念佛ノ事』、「『上仁井田の寺院』考」(阿部信順、『贄田』2、鈴木守発行、1984年)

俊興、得度

1月25日、のちに祐天寺18世となる巖谷俊興が増上寺76世山下現有大僧正を師として剃髪し、得度しました。俊興は明治30年(1897)7月2日に愍随とサトの長男として生まれ、この年の4月からは朝海小学校附属幼稚園(中央区)に入園します。

参考文献
『俊興上人の業績』

霊俊、仲台院再建に着手

1月、前住職霊俊(祐天寺16世)は以前住持していた小松川仲台院(江戸川区)に隠居し、弟子で仲台院30世の雄谷俊良とともに仲台院本堂の再建に着手しました。

参考文献
仲台院本堂棟札(仲台院)

第一教校の建築資金、寄付

2月25日、愍随は「第一教区令」の規定に従い、浄土宗立第一教校(現、芝中学校・高等学校)の建築費用として375円を寄付しました。寄付金の額は「教区令」によって寺院の等級ごとに決められていたようです。11月17日、この寄付に対し、第一教区教務所長から旌表(善行をほめて世に広く示すこと)されました。

参考文献
第一教校建築資金寄付への旌表状、『経歴概記』

御忌法会地方監事に

3月21日、愍随は山下大僧正より増上寺御忌法会地方監事を委嘱されました。

参考文献
『経歴概記』

大殿修復費を寄付

4月7日、愍随は増上寺大殿の修復費として増上寺へ100円を寄付しました。この寄付に対し、同月25日に山下大僧正から名号1幅と感謝状をたまわりました。

参考文献
増上寺大殿修復費寄付への感謝状、『経歴概記』

名号軸、寄進

5月10日、日本橋(中央区)の小林延之助より、早世した子どもの菩提を弔うために祐天上人名号軸2幅が祐天寺に寄進されました。これらには、明治26年(1893)11月に霊俊が「祐天上人の名号に間違いない」という裏書と箱書をそれぞれ認めていました。愍随は寄進された名号軸に、裏書と箱書を追記しました。

参考文献
祐天上人名号軸裏書・箱書、寄付証

掃苔会

6月22日、浅草(台東区)の大橋微笑宅で掃苔会31回例会が開催されました。掃苔会とは、著名人など尊敬する故人の墓参りをする会のことです。このときの例会には祐天上人墓図のほか河村瑞賢碑文、高山彦九郎墓図など、多数の墓図や碑文、拓本、文集などが出品されました。特に武田信賢(室町時代の武将)の墓探しの際の奇談で盛り上がったということです。

参考文献
『読売新聞』(1902年6月24日付)

貞徳院殿、逝去

10月2日、元尾張藩(愛知県)14代藩主徳川慶勝の正室貞徳院が逝去し、祐天寺に法号が納められました。法号は貞徳院殿恭蓮社寬誉和厚大禅定尼です。貞徳院は元二本松藩(福島県)9代藩主丹羽長富の次女で矩姫と言いました。

参考文献
『天正資料』、『三百藩藩主人名事典』2(藩主人名事典編纂委員会編、新人物往来社、1986年)

裏門、修繕

11月、祐天寺裏門の大規模な修繕が行われました。この裏門は、表門脇から墓地の前を通って祐天寺下へと続く細い坂道の下にありました。古老の話によると、この裏門は、第2次世界大戦後にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領軍が抜け道として車で通行を繰り返して壊したため、戦後まもなく撤去されたということです。

参考文献
『備忘概記』

盗品、持ち込まれる

11月20日、平野松之助が佐藤靖次という偽名を使って祐天寺を訪れ、香取郡八都村(千葉県香取市)の天台宗徳星寺から盗み出した十六羅漢像を売り付けようとしました。2、600円の売値を吹っ掛けられた愍随は「協議してから返事をする」と言って、松之助をいったん帰しました。その間に警察の調べにより盗品であることが判明し、松之助は12月1日に逮捕されました。その後、十六羅漢像は徳星寺に戻されたということです。

参考文献
『読売新聞』(1902年12月2日付)、『東京朝日新聞』(1902年12月2日付)

寺院

現有、知恩院に住す

5月1日、知恩院78世野上運海大僧正のあとを受け継ぎ、山下大僧正が増上寺76世から知恩院79世となり、浄土宗管長にも就任しました。在任33年の間に阿弥陀堂の再建や宗祖法然上人700年御忌の奉修、専修道場の開設、継志学寮の設置など、数々の業績を残しました。


貫務、増上寺に住す

6月20日、堀尾貫務大僧正が増上寺77世となりました。堀尾大僧正が在任中の明治42年(1909)4月に増上寺大殿が焼失するという大事件が起きますが、堀尾大僧正は90歳の老齢を押して再建資金勧募のため尽力しました。この勧募には祐天寺からも瓦料として100円を寄付した記録が残っています(大正10年「祐天寺」参照)。その結果、大正10年(1921)4月12日に大殿の上棟式を挙げることができました。しかし、堀尾大僧正はその夜より容体が急変し、同月25日に94歳で遷化しました。

参考文献
『経歴概記』、『浄土宗人名事典』、『浄土宗大年表』
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