1月1日、愍随は弟子となる随明の剃髪式を行いました。
4月24日、愍随は増上寺の御忌会に随喜しました。愍随の日記には「出勤した僧侶の中で第一上座だった」と書かれています。
4月25日より、愍随は伊豆松崎(静岡県松崎市)から大工を呼び寄せて、祐天寺の諸堂宇の修繕を始めました。松崎の大工を呼び寄せるようになったのは、祐天寺13世祐興が松崎浄泉寺の住職を勤めていたときの縁によります。
6月17日にはブリキ屋根の塗り替えを行い、翌日には植木職人も雇い入れて庭木の剪定などを行いました。また、12月初旬から始めた地蔵堂の屋根の修繕は同月23日に完了しました。
5月24日、愍随は野上運海浄土宗管長より、第一大教区荏原小教区教務支所長に任命されました。そのため、1年1か月にわたって務めた荏原小教区区会議員を辞職しました。また、12月1日には前年5月に引き受けた荏原小教区東部組組長の留任が決まりました。
5月、福岡成道寺(福岡県福岡市)16世の岩井見明は両親のために、祐天上人の名号を写した供養塔を建立しました。この名号は祐天上人が82歳のときに書かれたものです。のちにこの供養塔は成道寺の寺族墓となり、同寺の17世が筑紫姓であったことから台石に筑紫家墓と追刻されました。
6月28日、祐天寺で孝靖院殿(明治18年「祐天寺」参照)の17回忌法要が執り行われ、愍随が導師を勤めました。この法要には孝靖院殿の息女で大正天皇生母の早蕨典侍(のちの二位の局)をはじめ有位有爵の方々も参列しました。
7月6日、愍随は第一教務所長の荻原雲臺より、荏原小教区内の勧募委員長を委嘱されました。浄土宗立の学校である第一教校(現、芝中学校・高等学校)を創設するにあたり、校舎の建築費用を集める必要が生じ、その勧募の任を務めたのです。
7月6日、久邇宮邦彦王殿下が祐天寺を参詣されました。愍随が本堂などを案内し、殿下の質問にも1つひとつていねいに答えたそうです。殿下は祐天寺を気に入られ、そのうえ殿下が率いる砲兵聯隊の兵営地にも近かったことから、俔子妃殿下(元薩摩藩12代藩主島津忠義の息女)と、この年の2月に生まれた朝融王殿下とともに、7月22日から60日間の予定で祐天寺に逗留されることになりました。逗留中の殿下は愍随から祐天寺の由来や宝物についての話を聞いたり、祐天寺の諸堂宇や愍随の写真を撮ったりして、生活を楽しまれたそうです。
9月6日、殿下方は予定を繰り上げて祐天寺を出立することになり、殿下は仏前へお供えをされました。また、愍随には衣服を、そのほかの侍者や下男には金品が下賜されました。愍随は後日、このときのお供え料にて法事用の敷物「檀通」を数枚と、布団用の反物を数反購入したということです。
10月8日、愍随は増上寺76世山下現有大僧正より、増上寺大殿修造発願主を委嘱されました。