明顕山 祐天寺

年表

明治33年(1900年)

祐天寺

『行状実録』などを書写

1月2日、愍随は『祐天大僧正行状実録』と『武州目黒祐天寺中興祐海大和尚略伝』を書写しました。前書の『実録』は、祐天寺2世祐海が祐天上人の生い立ちから祐天寺の起立までについて述べたものを、霖霓(享保6年・宝暦3年「祐天寺」参照)が筆記したものです。また、後書の『略伝』は、宝暦11年(1761)に感霊(宝暦11年「祐天寺」参照)が、祐海の生涯を著したものです。のちに愍随は両書をまとめて『祐天大僧正行状実録』として印刷しました。

参考文献
『祐天大僧正行状実録』

消防組、出初式

1月4日、祐天寺前にて消防組の出初式が行われました。この日、祐天寺と同じ品川警察署管内ではほかに品川、大森、池上、世田谷でも出初式が行われました。

参考文献
『東京朝日新聞』(1900年1月1日付)

専門学院へ寄付

5月4日、愍随は浄土宗専門学院(現、佛教大学)の校舎建設のため10円を寄付しました。この寄付に対し、校舎完成ののちの明治35年(1902)6月25日に、山下現有浄土宗管長より嘉賞状が贈られます。

専門学院の前身は、明治元年(1868)に知恩院山内に設置された仏教講究の機関です。学生数が増えて校舎が手狭になったことから、この年の2月に獅子谷法然院(京都市左京区)から寄付された2、000坪の土地に新校舎を建設することが決まりました。新校舎は明治34年(1901)8月に完成します。

参考文献
浄土宗専門学院校舎建設資金寄付の嘉賞状、『経歴概記』

東部組組長に就任

5月19日、愍随は浄土宗の第一大教区荏原小教区東部組の組長に推薦されて当選しました。さらに同月30日には、荏原小教区区会議員にも選ばれました。

参考文献
『備忘概記』、『経歴概記』

早蕨典侍、参拝

6月28日、皇太子(のちの大正天皇)生母の早蕨典侍(のちの二位の局)は、皇太子の婚礼が無事に執り行われた報告を兼ねて、父の孝靖院殿(明治18年「祐天寺」参照)の法事を祐天寺で営みました。この法事の導師は愍随が勤め、有位有爵の方々も参列されました。

参考文献
『備忘概記』

歌舞伎役者、参詣

7月31日、翌月から東京座で累物の歌舞伎『累井筒雨夜譚話』に出演する実川延二郎(のちの2世実川延若)らが祐天寺を参詣しました。

この演目はこのときの興行が初演でした。午後3時に開場する夜芝居だったと思われます。筋書きが残されていないため内容はわかりませんが、役名に「祐天和尚」とあることから、祐天上人が登場した芝居のようです。12世中村勘五郎(のちの4世中村仲蔵)が祐天和尚、修理之助実は野晒金五郎、おくまの4役を、延二郎がかさね、助作とその亡霊、絹川谷五郎の4役を演じました。

東京座は明治30年(1897)から大正5年(1916)までの20年間、神田三崎町(千代田区)にあった大劇場です。開場当時は興行成績が振るいませんでしたが、延二郎ら上方の若手歌舞伎役者を起用してからは人気を得ていました。

参考文献
『東京朝日新聞』(1900年8月1日付)、『歌舞伎年表』8(伊原敏郎、岩波書店、1963年)、「東京座の役者たち」(利倉幸一、『かんだ』83号、かんだ会、1981年)

財産目録、作成

11月初旬より、愍随は『祐天寺財産目録』の作成に取り掛かり、年内に完成させました。本書は祐天寺の由緒や堂宇の面積などが記された一覧表と絵図、寺宝などの目録から成るものです。これによると、当時の祐天寺の寺格は通常寺、等級は第5等、檀徒数は40戸・150人であったことがわかります。また、絵図には明治27年(1894)の火災(明治27年「祐天寺」参照)後に、燃えた堂宇の灰などを集めて造られた築山が描かれています。

参考文献
『祐天寺財産目録』、『備忘概記』

『偉人の言行』出版

11月19日、大学館より『偉人の言行』が出版されました。本書には檀通上人(祐天上人の師)について書かれた「哲僧祐天の恩師」という題の逸話が収録されています。

著者の俣野節村は青年学生の志気や品性を養うことを目的として、すでに世に知られた優れた先人たちの逸話だけではなく、その先人たちの師の逸話も併せて収録したということです。

参考文献
『偉人の言行』(俣野節村、大学館、1900年)

『墓地管理者の届出』

11月30日、愍随は前住職霊俊(祐天寺16世)より荏原郡目黒村大字上目黒29番地の共有墓地の管理を引き継いだため、東京府品川警察署に墓地管理者変更を届け出ました。

参考文献
「墓地管理者御届」の写し

観随の遺骨、分骨

12月4日、愍随は川越蓮馨寺(埼玉県川越市)から観随(元治元年「祐天寺」参照)の遺骨を分骨し、祐天寺墓地に卵塔を建立して遺骨を納めました。この墓にはのちに戒心(明治6年「祐天寺」参照)と霊俊が合祀されます。

参考文献
観随・戒心・霊俊合祀塔、『備忘概記』

道興、遷化

12月15日、伏見西光寺(京都市伏見区)25世の道興が遷化しました。法号は大蓮社愍誉上人徳阿泰巖道興老和尚です。道興は愍随の義師でした。

参考文献
『天正資料』、『明治資料』

人物

安本亀八

文政9年(1826)~明治33年(1900)

生人形師の安本亀八は、肥後熊本の迎町(熊本県熊本市)に生まれました。安本家は代々仏師の家系であったことから、亀八も幼い頃より父善蔵の手ほどきを受け、手細工が得意な少年に育ちます。熊本では毎年7月23日に催される地蔵祭に、歴史上の人物や動物を本物そっくりに作る「つくりもん」が飾られ、その優劣を競う人形競べが参詣人の楽しみとなっていました。亀八はこの人形競べにしのぎを削り、仏師としての腕を磨いていったようです。

やがて亀八は古い神社仏閣の彫刻や絵画に興味を抱き、30歳前後の安政年間(1854~1859)に近畿地方へ旅立ちました。そこで飾り彫刻や仏像の修復に携わり、万延元年(1860)頃からは伊賀名張(三重県名張市)に滞在して、肖像彫刻も手掛けるようになります。

そして、明治維新を迎えると亀八の作風は一変します。廃仏毀釈の煽りを受けて、見世物としての生人形作りに徹せざるをえなくなったのです。亀八の人形は、肌の質感までもが伝わるような独特なリアリティを持ち、今にも動き出すのではないかと錯覚させるものでした。明治3年(1870)に大阪で興行した「東海道五十三次道中生人形」は連日大入りの大盛況となり、興行日数は数か月にも及びました。

亀八は明治8年(1875)に浅草(台東区)へ本拠地を移し、さらに活躍の場を海外にも広げ、上海のイギリス人居留地で約60体の生人形を展示して世間を驚かせます。中国大陸で日本の見世物が興行されたのは初めてのことでした。明治13年(1880)には内務省博物局によって開催された観古美術会の審査員を務めるなど、文化人としての地位も確立しました。

明治19年(1886)4月、静岡宝台院(静岡県静岡市)で成田不動尊の出開帳が行われることとなり、亀八は前年頃から引退を考え始めていたものの祐天上人の生人形を出展しました。「抑もこれは東京の住人安本亀八翁の細工にござります。ここもとは祐天和尚いまだ幼かりしとき、不動尊の利剣を呑む体にござります。面の容体四肢の細工に丹精を凝せし細微ところにお眼を止られ御評判の程を願います」という口上どおりの見事な出来映えで、連日新聞に報道されるほどの人気振りでした。

亀八はこの興行の高評価と友人仮名垣魯文らの激励により再起を決意します。明治21年(1888)には以前大阪で興行した「東海道五十三次道中生人形」に新趣向を加えて興行し、再び大成功を収めました。そして、明治26年(1893)に西南戦争(明治10年「事件・風俗」参照)を題材として浅草公園で興行した「一世一代鹿児島戦争実説」が代表作となります。ついに亀八は「人形ハ、ヤスモトカメハチ」とまで言われるようになりました。

亀八の製作意欲は晩年まで衰えず、明治30年(1897)には熊本で日清戦争を題材とした生人形を披露して大変な人気を博します。故郷に錦を飾った亀八は東京へ戻り、明治33年12月8日に75歳でこの世を去りました。そして、亀八の死とほぼ時期を同じくして、見世物としての生人形は活動写真に取って代わられ、姿を消していきました。

参考文献
『生人形師安本亀八』(冨森盛一、赤目出版会、1976年)、『静岡大務新聞』(静岡大務新聞社、1886年4月8日・9日付)、「生人形の話―松本喜三郎と安本亀八」(木下直之、『別冊太陽』123号、平凡社、2003年)
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