3月22日、顕昌院が83歳で逝去し、祐天寺に葬られました。
法号は顕昌院殿俊誉貞穏大姉です。
顕昌院は名を衆子と言い、旧宮津藩(京都府)の家老を務めた河瀬治休の妻です。墓石には「祐天寺建斯石為墓標」と彫られており、養子の秀治が明治2年(1869)に新政府に出仕して武蔵知県事を任じられたのを機に、顕昌院も東京に移り住み、祐天寺に墓標を建てたものと思われます。
5月18日、75歳となった霊俊(明治23年「祐天寺」参照)が高齢を理由に祐天寺住職を退隠し、その弟子の愍随が跡を継ぎました。これまで祐天寺の歴代住職は、祐天上人の実家新妻家(寛永14年「祐天寺」・寛永16年「伝説」参照)ゆかりの者であったため新妻姓でしたが、愍随からは巖谷姓となります。
5月26日から愍随は、霊俊や納所、檀家総代らとともに組内の法縁や檀信徒のもとへ住職交代のあいさつに回りました。霊俊は10月19日に、以前住持していた小松川仲台院(江戸川区)へ引き移ったのち、明治36年(1903)11月3日に遷化します。
愍随は元治元年(1864)に畳町(中央区)で、田中七五郎の次男として生まれました。明治8年(1875)に田戸聖徳寺(神奈川県横須賀市)17世であった霊俊のもとで出家し(明治11年「祐天寺」参照)、油掛西岸寺(京都市伏見区)、多賀西福寺(滋賀県大津市)を歴住したのち、祐天寺に入院しました。
祐天寺在住中は本堂焼失後の苦難を乗り越え、境内の建物を総修繕したほか本堂の増築も行うなど山内の整備に尽力し、また増上寺および浄土宗の発展にも貢献します。
大正7年(1918)に鎌倉高徳院(神奈川県鎌倉市)が祐天上人200年御遠忌記念として境内地を拡張した際にも、その世話人の1人となって同寺を支援するなど精力的に活躍しました。
大正14年(1925)には増上寺から「祐天寺後中興」と「明顕心院」の号を授かり、昭和3年(1928)6月に遷化。法号は明顕心院哀蓮社護念誉上人良阿愚祐俊順愍随大和尚です。
祐天寺は明治27年(1894)の火災により本堂を焼失したため、本堂再建の費用など多額の負債を抱えていました。5月時点での負債総額は3、623円65銭8厘もあり、この年に住職を継いだ愍随の肩に負債整理の責任が重くのしかかりました。そこで愍随は10月23日、檀家総代で会計の島崎忠左衛門に寺有財産出納の委任状を渡し、2人でこの難局を乗り越えていきます。そのかいあって明治38年(1905)12月19日に完済しました。
5月、消防組第一区四番組より華瓶の台が寄進されました。この台は高さが1尺(約30センチメートル)、差し渡しの長さが1尺3寸(約40センチメートル)で、重さは2貫600目(約9.7キログラム)ありました。
7月30日、祐天上人の遺物が松阪西方寺(三重県松阪市)に寄進されました。この遺物は西方寺に安置されている祐天上人御影に付属する什宝で、寄進者は祐天上人の信者だった森田喜兵衛(明治29年「祐天寺」参照)の子孫である谷川市太郎です。