1月に荏原郡忠死者弔魂碑(明治30年「祐天寺」参照)が祐天寺本堂脇に建立され、2月6日に序幕式が執り行われました。碑の周囲に万国旗を張り巡らし、用意した20発の花火を時々打ち上げて景気を付けながら式典が進められ、馬車1台と音楽隊が市中に繰り出すなどしてお祝いのムードを盛り上げました。
碑建立の発起人である落合円次郎、安藤栄次郎、和田政吉のほか、世話人の名も碑に刻まれました。石碑の制作は青山(渋谷区)の石勝という石屋です。碑はその後、山門脇に移動されました。
8月、霊俊は祐天上人絵像を表装し、開眼供養を行いました。供養後、絵像は松崎(静岡県賀茂郡)の大工斉藤秀八に授与されました。本堂再建への貢献に対するお礼と思われます。
この年、本堂の外陣となる拝殿を建立し、渡り廊下で本殿とつなげました。明治27年(1894)の火災(明治27年「祐天寺」参照)で焼失した本堂の再建は、翌28年(1895)の御霊殿(万延元年「祐天寺」参照)曳き移しに始まります。
御霊殿を本殿とし、拝殿を渡り廊下でつないだことで徳川家の霊廟建築に見られる権現造りのような構造となりました。しかし、仏事には不向きであったことから、大正元年(1912)に本殿と拝殿の間に内陣を設け、現在の本堂の原型が完成します。その後、昭和35年(1960)に外陣を増築し、平成22年(2010)には免震保存改修工事が行われました。
この年、三条天性寺(京都市中京区)に祐天上人名号付きの柴田家墓が建立されました。明治9年(1876)に亡くなった柴田豊作をはじめ妻子ら7人が合祀されています。墓石には豊作の名の下に「父」と彫られており、豊作の子どもがこの墓を建立したことがわかります。
3月、三遊亭円朝(明治15年「人物」参照)作の『真景累ケ淵』が芝居に脚色され、真砂座で初演されました。円朝の『真景累ケ淵』の主筋は以下のとおりです。
旗本の深見新左衛門の次男新吉と、新左衛門に殺された按摩宗悦の娘で富本の師匠である豊志賀が、悪因縁でわりない仲となりました。しかし、豊志賀は新吉と弟子のお久との仲を疑って病となり自害します。新吉とお久は連れ立って下総羽生村(茨城県常総市)へ行こうとしますが、途中で豊志賀の亡霊を見た新吉は鎌を振り回し、知らないうちにお久を殺してしまいました。
その後、新吉は裕福な三蔵の妹お累に見初められて結婚しますが、生まれた子どもに愛情が持てず、名主の惣右衛門の妾お賤と通じてお累を虐待したため、とうとうお累は自害してしまいました。新吉とお賤は一緒になるために惣右衛門を殺し、それを知った土手の甚蔵も殺します。しかし、お熊という尼の話から新吉とお賤は異母兄妹であることがわかり、2人は因果を悟って心中します。