8月31日、祐天寺14世であった祐真(慶応2年「祐天寺」参照)が75歳で遷化し、祐天寺に葬られました。法号は譲蓮社遜誉上人礼阿愚全祐真大和尚です。その墓石には祐真の両親ら4霊の法号も刻まれています。
侠客の落合円次郎(明治31年「祐天寺」参照)は、日清戦争における荏原郡出身の戦死者を供養する碑を祐天寺に建設しようと考えました。10月28日、友人の安藤栄次郎・和田政吉のほかに、祐天寺檀家総代の島崎忠左衛門をはじめ島崎弥八、直井楽之助、および住職の霊俊との連名で、円次郎は役所に建設願を提出し、12月10日に東京府知事より許可されました。
この年、明治27年(1894)の火災(明治27年「祐天寺」参照)で焼失した庫裏が再建されました。この庫裏は『祐天寺財産目録』によると、木造瓦葺きで間口13間半(約24.57メートル)、奥行7間(約12.74メートル)の大きさに建てられました。また、明治33年(1900)に描かれた「壱分壱間之図」には、現在の書院がある場所に庫裏が描かれていることから、この庫裏をのちに書院として使うようになったと思われます。
火災に遭う前の庫裏は、明治10年(1877)に増上寺に提出した『浄土宗明細簿』(明治10年「祐天寺」参照)に描かれた境内図によると、現在の祐光殿前の広場辺りに位置していました。間口11間半(約20.7メートル)、奥行10間(約18メートル)の大きさでした。