5月、祐天寺地蔵堂の水屋と井戸が再建されました。この水屋はもともと寛政元年(1789)6月に、江戸町火消ゑ組の鳶若者中から寄進されたもので、水盤の正面中央に「ゑ組」と彫られ、その両脇には鐶一紋が配されています。この年の再建には西久保(港区)の石工の丑五郎があたり、背面には「第二区三番組」〔江戸町火消いろは四十八組は明治5年(1872)に消防組に改変され、ゑ組はその第2区3番組となった〕の50人の名前が刻まれています。
また、井戸は寛政3年(1791)11月に四ツ谷(新宿区)の商人たちが建立したものですが(寛政3年「祐天寺」参照)、水屋と同時にゑ組によって再建されました。
7月27日、元土佐藩(高知県)藩士の日野春草が逝去し、祐天寺に埋葬されました。翌年の4月に建立された墓石には佐藤復の撰文により、嗣子の日野敬五郎が記した春草の経歴が刻まれています。
春草は元は寺村左膳と言いましたが、後年に改名しました。国学の才能を見込まれて土佐藩15代藩主山内容堂の側用役となり、容堂が15代将軍慶喜に提出した「政権奉還建白書」に後藤象二郎らと連署するなど活躍しましたが、土佐藩の戊辰戦争の参戦に反対したため失脚させられました。その後は旧藩主山内家の家令を勤めるなどしたようです。この年の7月に従五位に叙せられますが、その直後に65歳で亡くなりました。
11月4日、祐天上人ゆかりの威儀細(五条袈裟の1つで、小型の袈裟)が、谷川市太郎から松阪西方寺(三重県松阪市)へ寄進されました。浅黄色の羽二重地で仕立てられたこの威儀細は、祐天寺2世祐海から市太郎の先祖である森田喜兵衛へ授けられたものです。喜兵衛は西方寺の檀家で、森田直往(元禄10年「伝説」参照)の親類にあたり、直往と同様に祐天上人へ信仰を寄せていました。祐海が享保3年(1718)9月8日に喜兵衛へ送った手紙が西方寺に残されており、祐天上人遷化の際にお悔やみの手紙とともに香奠金200疋を牌前へ供えた喜兵衛へのお礼として、この威儀細が贈られたことがわかります。またこの手紙には、この威儀細が祐天上人の帷子で仕立てられたことや、祐天上人が所持していた数珠や名号も同時に授けたことなども併せて書かれています(明治32年「祐天寺」参照)。