明顕山 祐天寺

年表

明治24年(1891年)

祐天上人

堅誡、遷化

6月24日、三条天性寺(京都市中京区)16世當麻堅誡が遷化しました。法号は審蓮社体誉上人念阿不忘堅誡老和尚です。

堅誡は天保6年(1835)に、天性寺14世宣徹のもとで得度したのち、小石川伝通院(文京区)にて修学。弘化元年(1844)に天性寺に入り、そのとき隠居していた知恩院69世順良の弟子となりました。翌2年(1845)8月に天性寺住職となり、同年12月に遷化した順良を見送りました。明治に入ってからは、廃仏毀釈に揺れる天性寺を支え続けました。遷化後の明治35年(1902)には、大僧都の位を贈られました。

参考文献
『日鑑』(天性寺)、『天正過去帳』

歌野、逝去

4月9日、歌野が逝去し、祐天寺に葬られ、位牌が納められました。享年60歳でした。法号は安靖院殿寂誉妙心大姉です。歌野は上賀茂神社(京都市北区)の社家である長谷川雪顕の娘で、柳原光愛(明治18年「祐天寺」参照)の妻でした。前光(明治27年「祐天寺」参照)や愛子(大正天皇生母)の母です。

参考文献
歌野位牌、柳原家墓誌、『本堂過去霊名簿』、「柳原一位局の懐妊」(柳原白蓮、『特集文藝春秋 天皇白書』、田川博一編、文藝春秋新社、1898年)

祐真、名号に裏書

7月15日、祐天寺14世祐真が祐天上人名号軸に、真筆である旨を裏書きしました。この名号軸は、祐真の妹豊の嫁ぎ先である早川家にて所蔵されています。

参考文献
祐天上人名号軸裏書(早川家)、『早川家資料』

全国宝物取調局、監査

8月1日、臨時全国宝物取調局から監査状が届きました。祐天寺が所蔵する釈迦像1幅が美術品として「優秀品」であると認定されたためです。

この釈迦像の大きさは縦3尺7寸(約113センチメートル)、横1尺2寸5分(約39センチメートル)で、作者は趙思恭です。

臨時全国宝物取調局は、明治21年(1888)に文化財調査を目的として宮内省に設けられました。21万点以上もの美術工芸品について、帝国博物館総長の九鬼隆一や同館理事の岡倉天心(明治17年「人物」参照)らが調査にあたりました。

参考文献
「監査状」、『文化財保護法五十年史』(文化財保護法50年史顧問会議編、ぎょうせい、2001年)

寺院

妖怪研究会、結成

井上円了は「真の宗教信仰にとって迷信が大きな障害になる」と述べ、仏教全体を科学的・哲学的な新視点で見直そうと、この年に妖怪研究会を結成しました。円了の妖怪研究は明治20年(1887)に出版した『妖怪玄談』に端を発します。本書はわずか86ページの小冊子ですが、円了の妖怪研究分野における処女作であり、この中でコックリさん(明治19年「解説」参照)の正体を解明しています。

円了はこの研究を民間の迷信打破に役立てようと、妖怪的なものの否定を目的に広汎な資料を集め、さらにほぼ全国的な実地調査を行いました。また、研究の成果を『妖怪学講義』に著し、講演も頻繁に行ったので、世間からは「おばけ博士」と呼ばれました。

参考文献
『日本宗教制度史』近代編(梅田義彦、東宣出版、1971年)、『井上円了妖怪学講義』(平野威馬雄、リブロポート、1983年)

事件

大津事件

5月、来日中のロシア皇太子ニコライ(のちのニコライ2世)が琵琶湖を観光したのち人力車で京都へ帰る途中、大津町(滋賀県大津市)で警護のために立ち番をしていた巡査の津田三蔵から突然斬り付けられるという事件が起こりました。世に言う大津事件です。幸いにも皇太子の命に別状はありませんでした。

皇太子の来日はシベリア鉄道の起工式列席の途次、東洋諸国を漫遊した折のもので、日露両国の親善が中心の私的な旅行でした。しかし、犯行の動機について三蔵は、「皇太子の来日目的が日本侵略のための調査だと思った」と述べています。日本国内では三蔵のような一部の「恐露思想」に取り憑かれた人々により、皇太子の訪日は軍事目的であり、日本を偵察にきたとの憶測がなされていたのです。

事件後、明治天皇はすぐに京都へ赴き、皇太子を見舞いました。一方、三蔵は逮捕後、膳所監獄へ送られ予審尋問がただちに行われました。

大津事件に対し、政府はロシアの対日感情を融和するため、犯人を死刑とする大逆罪の適用を強力に唱えます。山田顕義法相や西郷従道内相は大審院長の児島惟謙に死刑判決を要求し、ほかの判事へも圧力を掛けます。しかし、惟謙は政府の圧力に屈することなく司法権の独立を護りました。

大津地方裁判所で開かれた大審院裁判部の公判は、刑法292条の「謀殺は死刑」、112条の「未遂は減刑」という条文を適用し、よって普通人に対する謀殺未遂として無期徒刑の判決を下しました。この判決は当初、ロシアの対日感情を害するものと憂慮されましたが、国際的には日本の司法権に対する信頼を高め、治外法権の撤廃を目指す条約改正交渉に良い影響を与えることになりました。

参考文献
『復元 鹿鳴館・ニコライ堂・第一国立銀行』(東京都江戸東京博物館監、ユーシープランニング、1995年)、『児島惟謙』(楠精一郎、中央公論社、1997年)、『論考大津事件』(山中敬一、成文堂、1994年)

風俗

ニコライ堂

明治17年(1884)から建設が始まった日本ハリストス正教会東京復活大聖堂、通称ニコライ堂(重要文化財)がこの年の2月に完成しました。東京市中を見下ろす駿河台(千代田区)に建つ大聖堂は、東京の大部分の場所から見ることができるため、 東京のランドマークとなりました。

ニコライ堂は、日本に東方正教会の教えをもたらしたロシア人修道司祭(のちの大主教)ニコライ・カサートキンにより、建設計画がなされました。ビザンチン様式で、玉葱型ドームがそびえ立つ特徴的な姿をしています。ロシア人建築家ミハイル・シチュールポフが設計し、イギリス人建築家ジョサイア・コンドルが実施設計・監督にあたりました。ニコライ堂の建設は日本の建築界の変革期を示す1つの出来事でした。以後、これまでの建築とは異なる本格的大規模洋風建築が続出します。

ニコライ堂は大正12年(1923)の関東大震災で鐘塔やドームが破壊され、内部も焼失しますが、建築家岡田信一郎によって改修され、昭和4年(1929)に復興。この修復はレンガ造りの構造体を残しつつ鉄筋コンクリートを巧みに用いたもので、旧建築のイメージを残しながら建物の補強と新しいデザインの導入に成功しています。平成に入り70年振りの全面修復が行われ、平成12年(2000)に完了しています。

参考文献
『復元 鹿鳴館・ニコライ堂・第一国立銀行』(東京都江戸東京博物館監、ユーシープランニング、1995年)、『児島惟謙』(楠精一郎、中央公論社、1997年)、『論考大津事件』(山中敬一、成文堂、1994年)

出版

『陰陽外伝磐戸開』

1月9日、賀茂規清の著作『陰陽外伝磐戸開』が、井上勝五郎により刊行されました。規清は京都上賀茂神社の社家である賀茂報清の息子で、天保・弘化年間(1830~1847)に烏伝神道を創唱した人物です。規清は本書の自序に、「胸中黒闇を照して大道の磐戸を開く一助とするために著した」と書いており、奇怪なことや妖術のたぐいを信じる人々を啓蒙することを意図していました。

本書ではさまざまな不思議な現象を紹介し、それぞれに規清独自の解釈を施していますが、祐天上人についても上人が成田不動に参籠した際の利益や剣難除けの名号にまつわる奇瑞を挙げ、「このような話を流布させるのは武をおとしめる行為で国家のためにはならない」と述べています。

本書は明治2年(1869)と同6年(1873)にも版本が刊行されていましたが、この年には活字化されたものが刊行されました。

参考文献
『陰陽外伝磐戸開』(賀茂規清、井上勝五郎発行、1891年)、『日本近世人名辞典』(竹内誠ほか編、吉川弘文館、2005年)

人物

田中正造 天保12年(1841)~大正2年(1913)

足尾銅山鉱毒事件(明治30年「事件・風俗」参照)で名を知られる田中正造は、下野国安蘇郡小中村(栃木県佐野市)の名主の家に生まれました。誕生日が天皇と同じ11月3日であったことから、正造は後年、この日が「明治節」として祝われるたびに「国民が自分の誕生日を祝ってくれている」と冗談を言っていたそうです。

17歳の頃、父が割元(周辺村の名主を統括する役人)に就任したため、正造は父の跡を継いで名主になりました。農耕のほかに、寺子屋で子どもたちに読み書きを教え、さらに夜は学問に励むという非常に多忙な青年期を送ります。その正造に転機が訪れたのは23歳のとき。小中村の領主六角家が領地の統治方法を変えたことに反発し、領地の農民たちを組織して改革運動を始めたのです。これにより正造は捕縛され、わずか3尺(約90センチメートル)立方の牢で10か月余りを過ごしたと言います。この「六角家騒動」は六角家の主君交代とともに、正造が領地追放の処分を受けるという形で決着しました。

その後、知人の勧めで江刺県花輪分局(秋田県鹿角市)に勤務しましたが、1年ほどで正造は再び獄中の人となります。上司暗殺の容疑者とされたのです。獄中生活は3年近くにも及び、正造は極寒の東北の冬を、死者の衣服をもらい受けて耐えたと言われています。しかし、そのとき獄中で読んだ『西国立志編』(明治3年「出版・芸能」参照)が正造の思想に大きな影響を与え、政治の世界へと導くこととなりました。釈放後に栃木県県会議員となると、『栃木新聞』の創刊などを通じて国会開設運動を繰り広げました。

第1回衆議院総選挙で当選を果たしたのは、正造が50歳のときです。すでに足尾銅山の鉱毒被害は始まっていました。明治24年に開かれた第2回帝国議会で正造はその問題を取り上げますが、政府の態度は冷淡なものでした。しかし、暴挙に出ようとする被害民たちを、正造は何度も押しとどめます。正造は日本を立憲国家にするという理想を持ち、暴力ではなく法に訴える問題解決の道を模索していたのです。それは正造を天皇直訴へと駆り立てることにもなりました。

正造が61歳の冬、議会開院式の帰途にあった天皇の馬車に、直訴状を片手に走り寄った事件は、東京で号外が配られるほどの大騒動となりました。訴状の内容は新聞に掲載され、被害民救済の世論が沸き起こります。これを受けて政府も内閣に鉱毒調査委員会を設置しますが、鉱毒被害の除去のために遊水池を造ることになり、新たな問題が発生しました。遊水池の場所として選ばれたのは、人の暮らす谷中村(栃木県下都賀郡)だったのです。

正造は谷中村へ移り住み、村民を率いて抵抗運動を繰り広げます。政府は強引に土地を買収して村民を移住させますが、正造たちが抵抗をやめることはありませんでした。しかし大正2年、故郷から谷中村への帰途で倒れた正造は、9月4日に胃癌のため闘い半ばにして死去しました。享年74歳。闘争に捧げ尽くした生涯でした。正造が遺した財産は菅笠と信玄袋1つのみだったそうです。

参考文献
『田中正造』(小松裕、筑摩書房、1995年)、『田中正造』(布川清司、清水書院、1997年)
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