明顕山 祐天寺

年表

明治23年(1890年)

祐天寺

『東京名所図会』刊行

2月23日、中野了随が著した『東京名所図会』が刊行されました。都下の名勝・古蹟のほかに、新設された学校や会社、工場、遊園地なども紹介されています。祐天寺については、常行念仏の道場であり、毎年7月16日から25日まで行われる阿弥陀経千部修行の際には多くの参詣人で賑わうことなどが書かれています。

参考文献
『東京名所図会』

祐天寺事件

12月、約2年半に及ぶ祐天寺事件が解決しました。事件の始まりは明治21年(1888)秋頃のことです。祐道は自身の行状が問題視されて浄土宗管長より住職を免じられましたが、祐天寺を立ち退きませんでした。そこで檀家総代は、祐道が本堂で読経することを妨害し、後継住職を立てようとしました。翌年9月に祐道は、仲裁を依頼していた地元政治家からも見放されました。その後、目黒村長はもとより、荏原郡長、品川警察署長までもが問題解決に乗り出したそうですが、ついにこの年まで持ち越されていたのです。

5月、祐道は自分に味方する檀家を通じて、侠客の落合円次郎に仲裁を依頼しました。円次郎は双方の言い分を聞き仲裁のために奔走しますが、解決の糸口を見付けられないまま4か月が過ぎました。やがて、檀家総代が住職立ち退き請求の訴訟を起こして勝訴します。祐道が控訴の準備を進めていたところへ、円次郎から葬儀の話が持ち込まれました。円次郎の機転が功を奏して、祐道導師による葬儀が本堂で無事に執り行われ、祐道は面目を保って退任しました。

参考文献
『明治侠客 落合円次郎伝』(落合次郎、行詩社、1957年)、『読売新聞』(1890年12月4日付)

祐道から霊俊へ

12月、15世祐道が退任し、霊俊が祐天寺16世となりました。霊俊は文政8年(1825)、南方市左衛門の次男として日本橋(中央区)に生まれました。祐水、順良、観随と続く、祐天上人の法弟の1人です。小松川仲台院(江戸川区)、田戸聖徳寺(神奈川県横須賀市)、浅草誓願寺(現在は府中市に移転)を歴住しました。

霊俊は明治27年(1894)に祐天寺本堂が焼失するとその復興に全力を傾け、明治36年(1903)11月3日に世寿79歳で遷化しました。『寺録撮要』には「縁山耆宿」(耆宿とは学徳の優れた老人を言う)と記され、また権僧正を諡られていることから、優れた法器であったことがわかります。法号は愍蓮社大僧都念誉上人観阿愚雄霊俊祐鎧大和尚で、師僧の観随および兄弟弟子の戒心とともに合祀された墓が祐天寺にあります(元治元年「祐天寺」参照)。

参考文献
『寺録撮要』1、「歴代住職略歴」、『本堂過去霊名簿』
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