明顕山 祐天寺

年表

明治22年(1889年)

祐天寺

阿弥陀寺の『什物取調書』等、成立

1月、米沢阿弥陀寺(現存せず)の『什物取調書』『寺籍書』が書かれました。阿弥陀寺は享保3年(1718)に米沢藩(山形県)4代藩主上杉綱憲の側室である清寿院と宝寿院の心願により、祐天上人を大導師とする常念仏が開闢された寺院でした(寛政11年「祐天寺」参照)。

『祐天大僧正利益記』には米沢出身の商人が祐天上人の名号の利益をこうむったという話がいくつか載せられています。その最も古いものは元禄5年(1692)の石川勘兵衛の話です。勘兵衛は名号の利益を得てますます念仏への信仰を篤くし、祐天上人の実徳を仰いで出家したほどでした。その息子の香残が祐天上人の随従となったのも父の信仰によるものと思われ、のちに香残が両親と石川家先祖代々の菩提のために祐天上人名号付きの供養塔を阿弥陀寺に建立していることから、阿弥陀寺での常念仏開闢にも深くかかわっていたと推測されます。

阿弥陀寺は明治5年(1872)に本堂を焼失したのち、徐々に廃寺の道をたどりましたが、常念仏で使用されていた祐天上人ゆかりの伏鉦をはじめ文書などの什物類は米沢西蓮寺(同県米沢市)に引き継がれました。これは西蓮寺が当地の組寺総代であったという理由だけでなく、瑞燿院(天保元年「説明」参照)が所持していた祐天上人名号付きの「円光大師臨終之図」が納められるなど上杉家や黒田家からの帰依が篤かったこと、さらに祐天寺と関係の深い寺院であったことが要因と考えられます(明治17年「祐天寺」参照)。

参考文献
『什物取調書』・『寺籍書』・『当寺境内并寺堂絵図等書上之覚』(西蓮寺)、『祐天大僧正利益記』

順道、遷化

5月21日、芝真乗院(港区。明和元年「説明」参照)12世順道が遷化しました。法号は清蓮社泉誉上人戒阿定故順道大和尚です。祐天寺には真乗院の歴代住職を合祀した亀趺塔が建立され、その位牌(天保4年「祐天寺」参照)も納められています。

参考文献
真乗院亀趺塔

長八、逝去

10月8日、祐天寺13世祐興に帰依していた入江長八(安政6年「人物」参照)が深川八名川町(江東区)の寓居で逝去しました。享年75歳でした。長八は生前に仰誉天祐乾道禅士という法号を授かっていましたが、没後に光照院という院号が贈られました。

参考文献
『伊豆長八』(結城素明、芸艸堂、1938年)、『伊豆長八作品集』下(清水真澄ほか編、松崎町振興公社、1990年)

『怪談累物語』出版

12月15日、柳沢武運三の編集した『怪談累物語』が出版されました。本書は、累の霊に取り憑かれた菊という娘を祐天上人が助けるという物語です(寛文12年「伝説」参照)。同様の話が『死霊解脱物語聞書』(元禄3年「出版」参照)や祐天上人の伝記の中に見られます。それらでは菊に累の霊が取り憑いた場面から始まりますが、本書は累の両親が結婚する場面から始まり、母が連れ子の助松を殺害し、そののちに累が誕生するなど、時系列に沿って物語が展開していきます。

参考文献
『怪談累物語』(柳沢武運三編、旧邦堂欣愿閲、1889年)
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