3月20日、ドイツ皇后アウグスタの秘書を務めた経歴を持つオットマール・モールが、土方久元宮内相、鍋島直大式部長官とともに祐天寺を訪れました。モールは、日本の皇室にドイツ王室並みの機能と制度を整えようと考えた伊藤博文によって招かれ、来日していました。日記の中で祐天寺のことを「骨董品が豊かで、しかもかなり手入れが行き届いている」と評するなど、日本美術にも高い関心を寄せていたようです。
彼らが来寺した目的は、祐天寺所蔵の壁掛けが、宮城(現、皇居)の新宮殿の装飾に使えるかどうかを調べることでした。調査の対象となった壁掛けは、フランスのアラス地方で作られたもので、古代ローマの詩人ゲルギリウスの著作『アエネーイス』の中の諸々の場面を描いたものです。17世紀にオランダ人から徳川将軍へ贈られ、それ以来祐天寺で保管してきました。
この新宮殿は明治宮殿と呼ばれ、明治22年(1889)の「大日本帝国憲法」発布式はここで行われています。その後、昭和20年(1945)5月25日の空襲により全焼したため、この壁掛けが実際に明治宮殿の装飾に使われたかどうかなどは定かではありません。
5月、祐天寺で開帳が行われました。当初は25日までの予定でしたが、10日間(『明教新誌』には5日間とある)日延べして行われました。
7月10日に祐天上人坐像が神津島濤響寺(神津島村)に到着し、18日に遷座供養が営まれました。この祐天上人坐像は、祐天上人33回忌にあたる寛延3年(1750)に、祐天寺本堂の本尊祐天上人坐像のお前立として竹姫(5代将軍綱吉の養女。享保10年「人物」参照)から寄進されたものです。
遷座の際に新造された厨子の背面には、濤響寺24世定海と祐天寺祐道のほか、地役人や名主、世話人となった船頭たちの名前が記されています。また、右側面には念仏頭6人と講頭13人の名前も記され、遷座が島を挙げて行われたことがわかります。
8月、結城弘経寺(茨城県結城市)に一蓮会法名供養塔が建立されました。この塔は正面に祐天上人の名号が刻まれ、背面には建立主として犬丸喜平の名があります。犬丸家は結城町においてしょう油の醸造業で財を成した豪商であり、檀家として弘経寺山門前に総檀中と先祖の菩提のために六地蔵を建立するなど篤信家でもありました。