明顕山 祐天寺

年表

明治20年(1887年)

祐天寺

『祐天上人御実伝記』

6月11日、『祐天上人御実伝記』が『西行法師御実伝記』との合冊として鶴聲社より出版されました。内容は『祐天上人御一代記』(明治16年「祐天寺」参照)と全く同じです。

この本の序文には、「世を捨てた西行法師と世に棄てられた祐天上人の2人は迷いと欲から離れ、ついに人を導く標となりました(「世に棄てられた」とは本文中に檀通上人から勘当された話が載るためか)。西行法師は世を捨てたため悟りを開き、祐天上人は世に棄てられたため知識を得たのです。西行法師の歌の三十一文字、祐天上人の名号の六文字は人を善道に導くための教えであるので読者はそれを疑わないように」と書かれています。

参考文献
西行法師御実伝記・祐天上人御実伝記』全(編者未詳、鶴聲社、1887年)

大森薬師堂の様子

10月、祐天寺が兼務する荏原郡大森村(大田区)の薬師堂(享保16年「祐天寺」参照)で、2日2夜にわたり十夜講が執行されました。世話人は平林藤左衛門、田中兵七、伊東新平です。

薬師堂はその後、昭和17年(1942)に祐天寺18世俊興により「宗教団体法」に基づいて法人化の登記がなされましたが、第2次世界大戦の混乱に巻き込まれ廃寺の道を歩みました。薬師堂の跡地には現在、大田区立大森東中学校が建てられています。

参考文献
「郡部佛堂明細帳」(東京都公文書館蔵)

資秀の子息、逝去

11月19日、日野資秀伯爵の子息が逝去し、祐天寺に法号が納められました。法号は蓮心不著大童子です。資秀は柳原光愛(明治18年「祐天寺」参照)の5男に生まれ、日野資宗の養子となりました。資秀の曾祖父にあたる日野資矩が祐水に帰依しており(文化13年・天保元年「祐天寺」参照)、また柳原家も祐天寺を菩提寺としていたことから、資秀と祐天寺には深い縁がありました。こののちにも、資秀の息女たちの位牌が納められています。資秀は明治36年(1903)11月23日に逝去しますが、その際に祐天寺は日野家の菩堤所に定められ、祐天寺17世愍随が葬儀の導師を勤めました。

参考文献
日野家位牌、『本堂過去霊名簿』、『天正資料』
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