1月9日、霊丈が遷化し、祐天寺に法号が納められ、僧侶合祀塔にも追刻されました。法号は祥蓮社瑞誉上人神阿愚味霊丈大和尚です。霊丈は川越蓮馨寺(埼玉県川越市)39世観随の弟子で、祐天寺16世霊俊の兄弟弟子でした。万延元年(1860)に行われた祐天寺の将軍家代々霊殿建て直しにもかかわった上人です。
増上寺にて修学後、滝山大善寺(八王子市)を経て、慶応2年(1866)6月に静岡宝台院(静岡市葵区)27世となりました。宝台院は2代将軍秀忠の生母の菩提寺で、霊丈在住中の明治元年(1868)以降は15代将軍慶喜が謹慎した寺としても有名です。霊丈は明治14年(1881)から本通極楽寺(同区)に隠居していました。
3月26日、仁王門の瓦の葺き替えが行われました。同時に14世祐真の代に行われた瓦葺き替えの際に破損した棟木なども修復され、その棟木に祐道が名号を書きました。修復にかかわったのは大工の高橋徳三、木挽の田中米吉、瓦方の徳治郎、左官の河田安五郎です。
4月15日、足立炎天寺(足立区)に芦川家の墓が建立されました。伊東宥学の代のことです。多宝塔型の墓で、宝塔部に祐天上人名号が刻まれています。
5月30日、山内家に男子が誕生し、のちにその日付を入れ、「酉年之男子」と刻んだ地蔵菩薩坐像付き石塔が祐天寺に建立されました。この男子は侯爵山内豊範〔元土佐藩(高知県)16代藩主〕の3男の豊中と考えられます。のちに豊中は海軍少将となり、高松宮宣仁親王附き宮内事務官を務めました。
6月28日、従一位柳原光愛が逝去し、祐天寺に葬られました。法号は孝靖院殿月寂霞玄大居士で、納められた位牌には「孝靖院殿開府儀同三司月寂霞玄大居士尊儀」と記されています。儀同三司は天皇の外戚に与えられる名誉的な官職で、光愛の次女の愛子(早蕨典侍)が明治天皇の第3皇子(大正天皇)を生んだことから、光愛にこの位が与えられました。光愛の葬儀以後は、光愛の祥月法要をはじめ柳原家の法事が祐天寺で営まれ、明治34年(1901)の孝靖院殿17回忌には愛子のみならず、有位有爵の人々が参拝に訪れています。のちに愛子も祐天寺に葬られました。