明顕山 祐天寺

年表

明治16年(1883年)

祐天寺

弘経寺に十万人結縁塔、建立

3月、飯沼弘経寺(茨城県常総市)70世大順の代に、祐天上人名号付き十万人結縁塔が建立されました。祐天上人は、30世として弘経寺に住していた(元禄13年「祐天上人」参照)ことがあり、その徳を慕う信者の石塚武兵衛が、祐天上人に結縁する10万人を募ってこの塔を建てました。

参考文献
祐天上人名号付き十万人結縁塔(弘経寺)

西方寺に名号軸、奉納

4月17日、森田悦二郎から松阪西方寺(三重県松阪市)へ、祐天上人四十八願名号軸と百萬遍数珠が納められました。百萬遍数珠の親玉には「祐天(花押)」と彫られています。悦二郎は、西方寺を不断念仏道場とするために尽力した森田直往(元禄10年「伝説」参照)の子孫です。

参考文献
「譲り状」(西方寺)

『雨夜伽累譚』上演

6月28日、春木座で河竹黙阿弥作の歌舞伎『雨夜伽累譚』が上演されました。
この演目は滝沢馬琴の読本『新累解脱物語』を脚色した「累」物の1つです。4代目 助高屋高助が祐天上人を、初代 市川右団次が累、堀越助作、絹川谷五郎を演じました。右団次の3役早替わりが好評を得ました。

参考文献
「春木座新狂言筋書」(小野塚利右衛門、松応堂、1883年)、『江戸歌舞伎の残照』(吉田弥生、文芸社、2004年)、『歌舞伎年表』

『祐天上人御一代記』出版

7月7日、『祐天上人御一代記』が出版されました。
祐天上人の生涯とその奇瑞が編年体で書かれています。

本書は栄泉社が明治15年(1882)1月から同19年(1886)5月に掛けて出版した「今古実録」シリーズの1つで、江戸時代後期の貸本屋で流布していた『佐倉義民伝』『大岡仁政録』『鼠小僧実記』など庶民に人気のあった実録物と呼ばれるジャンルの写本を翻刻したものです。

『東京日日新聞』の創刊にかかわった広岡幸助が発行人となったことから、本文は旧来の木版刷りではなく、2段組という斬新な活版印刷(嘉永元年「事件・風俗」参照)が試みられました。しかし、装丁はまだ和装半紙本で、表紙も錦絵風の木版多色刷でした。表紙や挿絵は幸助の元同僚であった歌川派の落合芳幾が担当し、シリーズすべての表紙の背景に桜花を配したことから俗に「桜本」と呼ばれ親しまれたそうです。

こうした「今古実録」シリーズに『祐天上人御一代記』が収められたことは、祐天上人が広く庶民に受け入れられ、その伝記が読み継がれていたことを物語っています。

参考文献
『祐天上人御一代記』(今古実録、栄泉社、1883年)、「『今古実録』シリーズの出版をめぐって」(藤沢毅、『明治開化期と文学』、国文学研究資料館編、臨川書店、1998年)

六番組位牌、修復

7月に、祐天寺に納められていた江戸町火消六番組の位牌が修復されました。
組合面々の家内安全が祈願され、な組・む組・う組の各組の人名が記されています。
この位牌は安政5年(1858)5月に奉納(安政5年「祐天寺」参照)されたもので、明治36年(1903)10月にも再度修復されています。

参考文献
江戸町火消六番組位牌

岩倉、逝去

8月28日、岩倉が逝去し祐天寺に葬られ、法号が納められました。
法号は心月院殿澄誉清林祐岩大法尼です。

岩倉は藤波家40代当主寛忠の息女で名を藤子と言います。加賀藩(石川県)13代藩主前田斉泰の正室である溶姫(11代将軍家斉の息女)附きの上臈でした。岩倉の姉の裏辻(慶応元年「祐天寺」参照)、歌橋(明治10年「祐天寺」参照)も祐天寺に葬られ、歌橋と岩倉は合祀されています。岩倉の位牌は久留米藩(福岡県)11代藩主有馬頼咸の正室である精姫(有栖川宮韶仁親王の息女)の上臈高倉(六条有言の息女)によって納められました。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『天正資料』、『大中臣祭主藤波家の歴史』(藤波家文書研究会編、続群書類従完成会、1993年)

阿弥陀寺で袈裟袋、製作

10月2日、古知谷阿弥陀寺(京都市左京区)の開山弾誓と澄禅それぞれの袈裟や衣を納める袋が作られました。
施主は周防国室津浦(山口県下関市)で質屋を営む松前松之助の母の貞祐です。

袈裟の裏書によれば、澄禅の略二十五條袈裟は祐天上人が以前、澄禅のために作って寄付したものです。そののち松坂清光寺(三重県松阪市)の十万人講発願主となった中川常宇に授けられ、三井一成坊、さらに恵厚法子の手を経て、寛政元年(1789)8月26日に阿弥陀寺住職信阿のもとにもたらされていました。

参考文献
略二十五條袈裟裏書(阿弥陀寺)、「潤益舎付渡状」(1884年11月20日付、「吉田家文書」、山口県文書館所蔵)

『才子必読 吃驚草紙』出版

10月20日、島崎鴻南が編纂した『才子必読 吃驚草紙』が自由出版社より出版されました。
祐天上人が登場する話も、「祐天大僧正呵小山田與清」と題して掲載されています。

三縁山(増上寺)の学士となった松屋與清という男が門人を連れて祐天寺に参詣し、祐天寺の由緒を門人に聞かせていました。すると祐天上人像から声が聞こえます。祐天上人像は「與清が普段から自分の徳を慕ってくれていることを過分のことだ」と言いつつも、「山東京伝をはじめ本居宣長などの戯作や学者の諸説を盗んだり、孫引きしたりするのは学士としてあるまじき行為だ」と叱りました。最後に祐天上人像は「三縁山の名を汚すことがないように」と十念を授けるのでした。與清は冷や汗をかきながら十念を称えますが、よくよく辺りを見回すと田んぼの中にいたという話です。

参考文献
『才子必読 吃驚草紙』(島崎鴻南編、自由出版社、1883年)
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