明顕山 祐天寺

年表

明治15年(1882年)

祐天寺

正光寺扁額、修復

8月、日置正光寺(和歌山県西牟婁郡)にある、祐天寺2世祐海揮毫の扁額が修復されました。施主の三本六右衛門が知誉妙恵信女、恵春童女、照誉朗月春峯居士の菩提のために塗り替えをしたことが扁額の縁に彫られています。三本家は屋号を増屋と言い、材木関係の商いで成功した家です。

正光寺にはほかに、祐海の名号石塔と名号軸が現存しています。石塔は正光寺5世湛誉の代に建立されたもので、名号は6世性誉の代に表装されたものです。湛誉は生実大巖寺(千葉市中央区)の祐天上人のもとで修学していたと言われ、その縁により祐海とも親交があったのではないかと考えられます。

参考文献
祐海名号石塔および名号軸・正光寺扁額・『正光寺資料』(正光寺)、『日置川町誌』通史編上(日置川町誌編さん委員会編、日置川町、1996年)

利八への手紙

この頃、祐天寺より松崎(静岡県賀茂郡)の大工の斉藤利八(明治14年「祐天寺」参照)へ、利八が祐天寺に依頼した懸物ができたので受け取って欲しいという内容の手紙が差し出されました。

参考文献
斉藤利八宛手紙(斉藤家)

人物

三遊亭円朝

天保10年(1839)~明治33年(1900)

三遊亭円朝は噺家の初代橘家円太郎(本名は出淵長蔵)とすみとの間に生まれ、次郎吉と言いました。母の連れ子である徳太郎は、僧侶となって玄昌と名を改め、のちに谷中長安寺(台東区)の住職となりますが、この異父兄の存在が円朝に大きな影響を与えます。

円朝は弘化2年(1845)3月、7歳のときに橘家小円太と名乗り、寄席に出るようになりました。噺家となることをたびたび悩み、紙屋に奉公に出たり、浮世絵師を目指したこともありましたが、やはり芸人の道を選びました。

円朝は14、5歳頃に母とともに、長安寺の住職となっていた玄昌に引き取られ、門番代わりをしていました。玄昌の供をしたり、座禅を組んだり、経典を読誦することも習ったと思われます。時には、長安寺以外の寺院で行われる説教を聴聞して、仏教の基礎的な教養を身に付けるなど、この時期は円朝の仏教的思考が育まれた時期でした。一方で噺のけいこを怠ることはなく、長安寺本堂の本尊と向かい合って行っていたそうです。

安政2年(1855)3月21日、17歳の円朝は浅草金竜寺(台東区)にある初代三遊亭円生の墓前で三遊亭派の興隆と芸の上達を祈り、小円太の名を円朝と改めました。

兄の玄昌は早く亡くなりますが、その後も円朝は嵯峨天龍寺(京都市右京区)の管長滴水老師と山岡鉄舟から仏の教えを授かり、臨済禅を深く理解して生前に居士号を授けられました。谷中全生庵(台東区)の円朝の墓碑に刻まれている「三遊亭円朝無舌居士」の「無舌居士」がそれです。また、円朝は成田不動尊に信仰を寄せており、寄席へ出る前には水垢離をして「芸を上達させ給え」と願ったと言われています。こうした円朝の信心深さは生涯続きました。これだけ仏教を信仰した円朝のことですから、その創った噺に色濃く仏教思想が流れているのは当然のことと言えるでしょう。

安政6年(1859)、下谷の寄席で真を打つ機会に恵まれます。このとき、円朝より先に高座に上がる師匠円生に、自分の用意した演目を毎日先に演じられてしまい困惑したことから『累ヶ淵後日の怪談』を創作して自演しました。これがのちの『真景累ケ淵』です。文久元年(1861)頃からは、代表作『牡丹灯籠』の創作を始めました。これも『真景累ケ淵』とともに、深い仏教思想に裏打ちされた因縁因果の物語です。明治元年(1868)正月には浮世絵師の豊原国芳に、吉原の花魁小稲、歌舞伎役者の中村芝翫とともに3幅対の錦絵として描かれ、人気のほどが示されました。

高座では見事な話芸を披露し、また仏教思想に基づく日本人の感性を表した多くの創作作品を残した円朝は明治33年7月11日、進行性麻痺兼続発性脳髄炎のため亡くなりました。辞世の句は「耳しひて聞きさだめけり露の音」です。

参考文献
『落語風俗帳』(関山和夫、白水社、1991年)、『説教の歴史―仏教と話芸―』(関山和夫、白水社、1992年)、『三遊亭円朝全集』別巻(小島政二郎ほか監、角川書店、1976年)
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