7月1日、のちに祐天寺17世となる田中長次郎が鎌倉光明寺(神奈川県鎌倉市)の吉水玄信のもとで得度し、愍随と称しました。愍随は明治8年(1875)10月から田戸聖徳寺(神奈川県横須賀市)17世霊俊(のちの祐天寺16世)に随身していました。そこで、師である霊俊の蓮社号(愍蓮社)と霊俊の師である川越蓮馨寺(埼玉県川越市)中興の観随から、それぞれ1字をいただいたのです。愍随は翌12年(1879)11月には玄信から五重相伝を受け、俊誉の号をたまわりました。
愍随は6年7か月の間、霊俊に附き従いましたが、明治15年(1882)7月に京都大連寺(京都市左京区)17世芳井玄定の弟子となりました。同年11月には金戒光明寺(同区)57世獅子吼観定から入寺の許可を得て再び五重相伝を受け、このときに誉号を念誉と改めます。
この頃の浄土宗は東西大教院に分かれていたため、東部で五重相伝を受けた者は宗脈も東部で受けることになっていました。愍随はすでに鎌倉光明寺で五重相伝を受けていましたが、金戒光明寺で再度五重相伝を受け、翌年11月に観定から宗戒を相承します。同24年(1891)2月には知恩院77世日野霊瑞から宗脈を再伝され璽書を拝受しました。
10月、祐天寺では来年の3月から100日間の開帳を行うことについて検討しました。
10月に滝山極楽寺(八王子市)の34世大光が、祐天名号付き歯吹如来常念仏塔の表書を揮毫しました。歯吹如来とは極楽寺本尊の阿弥陀如来像のことで、口元にかすかに笑みを浮かべて歯をのぞかせているところから俗に歯吹如来と呼ばれています。
この常念仏塔の台石には大光の弟子により、大光が増上寺に学び扇之間席(享保10年「説明」参照)に進み、極楽寺の住職を10年間勤めたのち、文久3年(1863)に養雲寺(町田市)に隠棲したことや、この年に石塔の表書を揮毫して金1、000円を極楽寺へ寄付し、それを常行念仏の資金としたことが記されています。大光が明治19年(1886)10月4日に遷化すると、この塔は大光の墓ともなり、合わせて4霊の法号と忌日も刻まれました。
4月より増上寺69世石井大宣が、東北地方巡教のため東京を出発しました。宇都宮清巌寺(栃木県宇都宮市)を皮切りに福島、山形、秋田、岩手と回り、最後に郷里の長野を訪ねます。各地方の寺院で法要、説教、五重相伝などを勤めました。大宣から戒を受ける人々も多く、500人から場所によっては2、000人に上るところもありました。また、須賀川十念寺(福島県須賀川市)や郡山善導寺(同県郡山市)では、戊辰戦争で焼けた本堂を再建して、大宣を招きました。
各地方を巡教した大宣が増上寺に帰山したのは、この年の暮れのことでした。