2月13日に祐真は、大警視の川路利良へ、4月2日から60日間の開帳許可願いを提出しました。開帳するものは本尊祐天上人坐像および祐天寺の霊宝です。願いは3月12日に聞き届けられました。
開帳は予定どおり4月2日から始めましたが、期限間際の5月26日に祐真は、利良の代理である中警視安藤則命へ、6月1日から10日間の日延べ願いを提出します。開帳の開始と同時に新聞にも掲載されたことから大勢の参詣者が詰め掛け、その対応のために日延べを願い出たものと思われます。
3月6日の晩、祐天寺に刀を持った強盗が押し入りました。勤務していた者を縛り上げて、金2円と物品を盗んで逃げました。また、3月8日の晩にも3人の強盗が入りましたが、今度は何も盗らずに逃げました。実は6日に賊に入られたあとに「今度来たら取り押さえよう」と村中で相談して対処を決めていました。このとき知らせを聞いた村人たちが駆け付けて、暗闇の中で乱闘したということです。
7月、真言宗の高崎延養寺(群馬県高崎市)に祐天上人名号付き百萬遍供養塔が建立されました。塔の背面には、施主として延養寺檀家の羽鳥喜平をはじめ設楽金平、金山慈照、須賀聲念、今井蓮光の5人の名が刻まれています。この地域では百萬遍念仏が行われていたことから、彼らはおそらく念仏講の世話人だったと思われます。延養寺にはさらに、祐天上人作とされる福寿延命地蔵菩薩像が刻まれた版木が残っています。
9月2日に14代将軍 家茂の御台所である静寛院宮(和宮。文久元年「人物」参照)が、箱根塔ノ沢(神奈川県足柄下郡)にて脚気療養中のところ32歳で急逝しました。翌日に徳川家から増上寺へ、静寛院宮逝去の報と葬儀の内達があり、4日に山内寺院と随身の者に対し「謹慎して追善の回向をするように」との廻章(回覧文書)が出されました。祐天寺に対しては、9日に増上寺事務所から「静寛院宮様御葬式、本月十三日午前第十一時御出棺、当山ニ於テ御葬祭被仰出候条」との知らせがありました。
静寛院宮の遺骸は5日に箱根を発って藤沢の清浄光寺に1泊し、翌日の午後2時に麻布(港区)の自邸に着きました。
葬儀当日の13日には、喪主である徳川宗家の家達や13代将軍 家定の御台所天璋院(安政3年「人物」参照)などの名代のほか、宮内省勅奏任官、大臣参議、華族総代などが参列しました。法号は静寛院宮二品内親王好誉和順貞恭大姉と諡され、増上寺にある家茂宝塔のかたわらに埋葬されました。
9月9日、本丸上臈御年寄であった歌橋が逝去し、祐天寺に葬られました。法号は法好院殿蓮誉寿光操心法尼です。歌橋は藤波家40代当主寛忠の息女で、12代将軍 家慶のお附きだったと思われます。後年には、妹の岩倉(明治16年「祐天寺」参照)が合祀され、位牌が納められました。叔母の梅小路と姉の裏辻(慶応元年「祐天寺」参照)も祐天寺に葬られており、祐天寺との縁が深い人物でした。
11月7日、子爵の森川俊方が逝去し、祐天寺に法号が納められました。法号は徳光院殿文誉仁興俊芳大居士です。生実藩(千葉県)12代藩主であった俊方は、明治2年(1869)に版籍を奉還したのち生実藩知事に任命されましたが、明治4年(1871)の廃藩置県によりその職を免じられました。
11月、武蔵国葛飾郡鎌倉村(埼玉県三郷市)明王院の利剣名号軸と宝珠名号軸が修復されました。この2幅は裏書から明和年間(1764~1771)に明王院に納められたことがわかります。また、修復の際に、軸の裏にそれぞれ「弘法大師御真筆」と追記されましたが、箱書に「弘法大師真筆」と「大我上人臨書」とあることから、大我が弘法大師の書法を模写したものだとわかります。明王院には伏鉦と百萬遍数珠も現存していることから、祐天寺6世祐全が祐天上人50回忌(明和4年「祐天寺」参照)を記念して伏鉦や百萬遍数珠とともに縁故50か所へ配った名号の1組と考えられます。
この年、祐真と檀中総代である金子源治、早川重蔵の連名で、祐天上人の略歴および祐天寺の宝物や財産を記した書類が、増上寺と戸長(地方行政区画の区や町村の行政事務をつかさどる役人のこと)へ提出されました。この記録は『浄土宗明細簿』としてまとめられています。これには檀家数が21戸であることや、土地の広さおよび建物の大きさまで詳細に記された境内図も添付されており、当時の祐天寺を知る貴重な資料となっています。