6月26日付の『郵便報知新聞』に、祐天寺の僧侶が「毎夜算術を勉強し、此程にては境内へ水車の米舂器械(精米機)を仮設け、専ら商法の目論見最中」と報じられました。多事多難な時代を柔軟に乗り越えようと苦心していたのでしょう。
6月、祐天寺において寺宝の開帳が行われ、多くの人々が参拝しました。
11月、田戸聖徳寺(神奈川県横須賀市)の祐天上人坐像が造立されました。祐天寺本尊の祐天上人坐像を模したと考えられ、ほぼ等身大の大きさで、緋色の衣に牡丹唐草文様の袈裟を着けています。漆箔で仕上げられた胎内には阿弥陀三尊などの種子や偈頌、造立年月日が、「東京芝宝松院十八世 泰成」の名とともに墨書きされ、さらに地蔵菩薩立像と祐天上人の舎利が納められています。胎内底部には浅子定慶という仏師の名前も読み取ることができます。この祐天上人坐像が造られた当時の聖徳寺住職は、17世霊俊(のちの祐天寺16世)でした。
子ノ月(旧暦11月)、市川源心寺(千葉県市川市)に祐天上人名号付きの永井家墓が建立されました。墓石には、篠澤郷左衛門の次女で永井家の養女となった篠澤満津とその子どもの法号が刻まれています。満津の法号は斉誉松心信女、子どもの法号は敢夢童子です。この親子の菩提を弔うために、墓が建立されたものと思われます。