3月、戒心(元治元年「祐天寺」参照)が浅草誓願寺(現在は府中市に移転)の住職となりました。このとき、増上寺碧雲室(宝永5年「説明」参照)を、誓願寺塔頭であった迎接院(現在は練馬区に移転)に引き移し、同院の住職は祐天寺の法系から選出することと定められます。そして明治8年(1875)からは、戒心が迎接院住職を兼務しました。
戒心遷化後の明治17年(1884)に、迎接院は祐天寺の宿坊とされ、これ以降、毎年祐天寺から迎接院へ白米を送り、迎接院からは祐天寺本尊前に金銭を供えることが定められました。
5月6日、土佐藩(高知県)13代藩主山内豊熈の側室千覚院が逝去し、祐天寺に葬られ位牌が納められました。
法号は千覚院白法正員大姉です。
千覚院は掃部寮権助である平岡利常の娘で、名を民と言いました。祐天寺には娘の鏸子の石塔(天保13年「祐天寺」参照)が建立されており、また息子の篤弥太(嘉永元年「祐天寺」参照)の法号も納められていることから、千覚院が祐天寺へ篤い信仰を寄せていたことがわかります。
8月30日、千浦が逝去し、祐天寺に葬られ位牌が納められました。
法号は清月院好誉桂寿信女です。
千浦は本丸上臈である歌橋(明治10年「祐天寺」参照)のお附きでした。墓には「深川海辺大工町 志鎌氏逸女 二代目千浦」と彫られています。