3月3日、観哲が遷化しました。法号は勝蓮社最誉上人照阿愚善観哲和尚です。観哲は川越蓮馨寺(埼玉県川越市)39世観随(元治元年「祐天寺」参照)の弟子で、祐天寺16世霊俊の兄弟弟子にあたります。『寺録撮要』に「縁山席中ニ寂」と記されているので、増上寺の上読法問席(延宝3年「祐天上人」参照)である一文字・扇間・縁輪の三席のうちのいずれかに属していたと思われます。
5月24日、大森薬師堂(現存せず。明治20年「祐天寺」参照)の教興が遷化しました。法号は聖蓮社祐誉教興大徳です。教興は文政11年(1828)7月26日に行われた十一万部供養式(文政11年「祐天寺」参照)において御供所掛を勤めた僧でした。
この年、東京府に提出された『浄土宗鎮西一派本末寺院明細帳』には、祐天寺が増上寺の末寺であることや、祐天上人の来歴および当時祐天寺の住職だった祐真(慶応2年「祐天寺」参照)とその弟子の天随(のちの祐天寺15世祐道。明治13年「祐天寺」参照)、祐良の経歴が記されています。
祐良は東京府士族の関清四郎の次男として生まれ、明治2年(1869)2月に祐真のもとで得度しました。この『明細帳』が書かれた当時は15歳で、23歳の天随とともに祐天寺にて修学していたことがわかります。
また、この『明細帳』には祐天寺境内の坪数や、前年から上納するようになった年貢地高のほか、檀家が21軒あること、祐天寺末寺の大森薬師堂が無住であることなども記されています。