明顕山 祐天寺

年表

明治3年(1870年)

祐天寺

静寛院宮への手紙

1月17日、東京の小川町屋敷(千代田区。元の一橋邸)から聖護院(京都市左京区)に住まいを移していた静寛院宮(14代将軍家茂の御台所)のもとに手紙が届きました。その中には天璋院(13代将軍家定の御台所)の近況などを伝える手紙とともに、増上寺の現状を伝える祐天寺からの手紙も同封されていました。

参考文献
『静寛院宮御日記』(静寛院宮、『静寛院宮御日記』1、日本史籍協会編、東京大学出版会、1927年)

祐瑞、遷化

3月7日、大阪勝尾寺二階堂(大阪府箕面市)に隠居していた祐瑞が遷化しました。祐瑞は尼崎如来院(兵庫県尼崎市)の住職でした(嘉永5年「祐天寺」参照)。

参考文献
『如来院資料』(如来院)

紀州家位牌、還納

7月6日、前年の要請(明治2年「祐天寺」参照)に応じ、紀州家へ位牌などを還納しました。納めたものは貞恭院殿の位牌のほか、茶湯器と膳具、三つ具をひと通りと、供物台1対です。

貞恭院殿とは10代藩主徳川治宝の御簾中であり、田安宗武の息女の種姫のことです。種姫が逝去した寛政6年(1794)には、祐天寺に位牌と祠堂金200両が納められました。

参考文献
『南紀徳川史』16(堀内信編、清文堂、1933年)

学天、遷化

11月26日、知恩院73世学天が世寿67歳で遷化し、知恩院に葬られました。また、祐天寺にも法号と祠堂金が納められ、石塔が建立されました。法号は実蓮社名誉上人祐阿因順学天大僧正です。

学天は文化元年(1804)に紀伊国那賀郡粉河村(和歌山県紀の川市)に生まれ、7歳で出家しました。15歳で増上寺学寮の実巌のもとで修学し、文政8年(1825)には増上寺59世顕了(安政2年「祐天寺」参照)から宗脈・円頓戒の両脈を受け、のちに新田大光院(群馬県太田市)54世順良の門下に列します。小金東漸寺(千葉県松戸市)、瓜連常福寺(茨城県那珂市)、鎌倉光明寺(神奈川県鎌倉市)を歴住し、文久元年(1861)7月には知恩院73世に転昇しました。

霊俊(明治23年「祐天寺」参照)や戒心(明治6年「祐天寺」参照)が学天のもとで修学しており、また祐天上人の随従や祐天寺9世祐東が住した大野善導寺(福井県大野市。天明6年「祐天寺」参照)に、東漸寺在職中の学天からの書簡が残されているなど、学天は祐天寺との関係が深かったことがわかっています。

参考文献
学天書簡(善導寺)、『本堂過去霊名簿』、『学天大僧正道蹟』(岩崎徹治郎著作・発行、1919年)