正月22日、田安家御簾中の老女である花川が逝去し、祐天寺に埋葬され、法号と位牌が納められました。法号は唯称院蓮誉花光妙薫大姉です。位牌は八重尾(安政5年「祐天寺」参照)と合祀されています。
明治初年頃、目黒地域の大部分は武蔵県の所管に属していたと言われます。しかし、それは特に行政区域が定められていたわけではなく、旧代官をそのまま知県事に任命して旧支配地を管理させたもので、武蔵県とはそうした旧支配地の仮称でした。この年の1月から2月に掛けて、武蔵県は小菅県、大宮県、品川県の3地域に分けられ、祐天寺のある荏原郡は品川県に属しました。その後、明治4年(1871)の廃藩置県によって、荏原郡は東京府に編入されます。
2月15日、祐天上人名号付き戊辰戦争供養塔が建立されました。この供養塔は、戊辰戦争白河口(福島県白河市)の戦いの中で最大の激戦があった明治元年(1868)5月1日の翌日に、官軍の手によって処刑され谷津田川に流された会津藩士と白河領民の霊を祀ったものです。もともとは谷津田川に架かっている新橋のたもとに建っていましたが、白河常宣寺(同市)に移されました。
3月1日、祐真は磐城最勝院(福島県いわき市)の祐天上人名号軸に裏書きしました。
8月6日、八十野が逝去し、祐天寺に法号と祠堂金が納められました。法号は信行院深誉妙念大姉です。
八十野は『本堂過去霊名簿』によると「心蓮院局」とあり、『天正過去帳』には「御本丸老女飛鳥井殿局」とあることから、本丸老女の飛鳥井の局であったことがわかります。
11月、紀州家から、菩提寺以外に安置してある位牌を引き取ることになったため、祐天寺へ納めた紀州家の位牌を返却するよう、要請を受けました(明治3年「祐天寺」参照)。
この年、松崎(静岡県賀茂郡)の大工である斉藤利八に、箱根関所の通行手形が発行されました。
祐天寺で作業中の利八に息子の秀八が宛てた手紙も残っており、利八がこの時期に祐天寺諸堂の営繕を行っていたことがわかります。