3月8日、14代将軍家茂の御台所である静寛院宮(和宮)から依頼されていた地蔵尊ができ上がったため、届けました。
3月16日、祐天寺役僧は大岱村地蔵庵(東村山市。元治元年「祐天寺」参照)の役元である當麻弥左衛門をはじめ、世話人や村方衆中に宛てて書状を出しました。4月2日から祐天寺で執り行われる祐天大僧正150回遠忌法要の仏餉(仏に供える穀物)を取り集めるよう依頼したものです。
弥左衛門らはこれを受け、近隣の村々や名主に呼び掛けて品物を集めました。大岱村からは蕎麦1俵が奉納されました。
4月2日から11日に掛けて、厳修された150回遠忌法要は、6日に増上寺68世 明賢を招いて行われました。法要期間中は、仏餉を供えた村々から多くの人々が祐天寺に参詣し、大岱村では各家に名号札が配られたということです。
4月8日、市川源心寺(千葉県市川市)19世禅進によって祐天上人名号石塔が建立されました。名号の持ち主は永井太左衛門らで、石工は湊村(同県同市)の青山清造です。
7月22日、静寛院宮から祐天寺へ昭徳院殿(14代将軍家茂)の1周忌のための祈祷が仰せ付けられました。
次いで8月、増上寺で執り行われた昭徳院殿1周忌法要では、祐天寺が増上寺内陣詰出勤を仰せ付かり、その際に施物と昼食料が下賜されました。
7月14日、市村座において河竹黙阿弥作の歌舞伎『新累女千種花嫁』が上演されました。滝沢馬琴の『新累解脱物語』を脚色し劇化した作品です。
鎌を象徴的に用い、親の起こした殺害事件が子に災いするという因果応報の構成を継承しています。烏有上人が累の死霊を得脱させ、与右衛門は改心して出家を願うという『死霊解脱物語聞書』の説話性を持った最後の作品とされます。この作品以後は、同じく馬琴の作品に影響を受けた三遊亭円朝の『真景累ケ淵』(明治31年「出版・芸能」参照)が新たな累の世界を創っていきます。