明顕山 祐天寺

年表

慶応3年(1867年)

祐天寺

地蔵尊、納める

3月8日、14代将軍家茂の御台所である静寛院宮(和宮)から依頼されていた地蔵尊ができ上がったため、届けました。

参考文献
『静寛院宮御側日記』(庭田嗣子、『静寛院宮御日記』2、日本史籍協会編、東京大学出版会、1927年)

祐天大僧正150回遠忌

3月16日、祐天寺役僧は大岱村地蔵庵(東村山市。元治元年「祐天寺」参照)の役元である當麻弥左衛門をはじめ、世話人や村方衆中に宛てて書状を出しました。4月2日から祐天寺で執り行われる祐天大僧正150回遠忌法要の仏餉(仏に供える穀物)を取り集めるよう依頼したものです。

弥左衛門らはこれを受け、近隣の村々や名主に呼び掛けて品物を集めました。大岱村からは蕎麦1俵が奉納されました。

4月2日から11日に掛けて、厳修された150回遠忌法要は、6日に増上寺68世 明賢を招いて行われました。法要期間中は、仏餉を供えた村々から多くの人々が祐天寺に参詣し、大岱村では各家に名号札が配られたということです。

参考文献
「當麻勉家文書」、「史料紹介―祐天寺役僧書状について」(『東村山市研究』2、東村山市史編さん委員会編、東村山市、1993年)、『大本山増上寺史』本文編

源心寺に名号石塔、建立

4月8日、市川源心寺(千葉県市川市)19世禅進によって祐天上人名号石塔が建立されました。名号の持ち主は永井太左衛門らで、石工は湊村(同県同市)の青山清造です。

参考文献
祐天上人名号石塔・禅進墓(源心寺)

昭徳院殿1周忌

7月22日、静寛院宮から祐天寺へ昭徳院殿(14代将軍家茂)の1周忌のための祈祷が仰せ付けられました。

次いで8月、増上寺で執り行われた昭徳院殿1周忌法要では、祐天寺が増上寺内陣詰出勤を仰せ付かり、その際に施物と昼食料が下賜されました。

参考文献
「目黒祐天寺御施物下行昼食料願之儀申上候書付」(国立公文書館蔵)、『静寛院宮御側日記』、『浄土宗大年表』

芸能

『新累女千種花嫁』

7月14日、市村座において河竹黙阿弥作の歌舞伎『新累女千種花嫁』が上演されました。滝沢馬琴の『新累解脱物語』を脚色し劇化した作品です。

鎌を象徴的に用い、親の起こした殺害事件が子に災いするという因果応報の構成を継承しています。烏有上人が累の死霊を得脱させ、与右衛門は改心して出家を願うという『死霊解脱物語聞書』の説話性を持った最後の作品とされます。この作品以後は、同じく馬琴の作品に影響を受けた三遊亭円朝の『真景累ケ淵』(明治31年「出版・芸能」参照)が新たな累の世界を創っていきます。

参考文献
『江戸歌舞伎の残照』(吉田弥生、文芸社、2004年)、『歌舞伎年表』
TOP