2月6日、祐興が68歳で遷化しました。法号は親蓮社近誉上人縁阿愚因祐興大和尚です。祐興は城州岩倉(京都市左京区)の出身で、知恩院69世順良の弟子となり、初めは順海と称していました。
祐興は祐天寺の後中興として、阿弥陀堂の修復、地蔵堂門の建立、仁王像の修復(文久元年「祐天寺」参照)、『般若心経』の修補などを行いました。
2月14日、祐興の弟子であった祐真が祐天寺14世となりました。祐真は山城国乙訓郡寺戸村(京都府向日市)の出身で、長谷川嘉六の4男として文政5年(1822)4月16日に生まれ、幼名を友吉と言いました。天保2年(1831)2月に同国葛野郡下桂村(京都市西京区)の極楽寺で得度したことがわかっています。住職になる前は真巖と称し、祐天寺の納所や役僧を勤めていました。
3月16日、祐真は住職交代の報せを、役僧を通して将軍家茂の御台所和宮の典侍の庭田嗣子(権大納言庭田重能の息女。『静寛院宮御側日記』の著者)に伝えました。その際、祐真は竹の子を献上しました。
7月15日、川越蓮馨寺(埼玉県川越市)で祐天上人の祥月命日法要が営まれました。蓮馨寺においてこの法要が営まれるようになった時期や経緯は不明ですが、この年より以前に書かれた蓮馨寺の『年中行事』の7月15日の条にも「祐天大僧正御祥月御命日 御前御初夜御飯斎御出堂、尤御位牌本堂前机へ直シ置」とあります。祐天上人の祥月命日にはその位牌を本堂の前机へ安置し、蓮馨寺住職が初夜(午後8時頃)に法要を執り行っていたと考えられます。
8月17日、庭田嗣子はカラスが落命しているのを見て気懸かりに思い、祐天寺に祈祷を頼みました。江戸城内に天災・火災が起こらず、また自身も悪事・災難から逃れ無事に勤められるようにと祈念したのです。祐天寺に金200疋が納められ、翌日から祈祷が始められました。