2月29日、田安家上臈の裏辻が逝去し、祐天寺に葬られ、位牌が納められました。
法号は報雲院殿真誉実恩祐誠大姉です。
裏辻は、平安時代から明治時代初期まで伊勢神宮(三重県伊勢市)の祭主として代々神宮祭祀に携わった藤波家40代当主寛忠の息女です。
また、同じ墓に合祀されている永高院(田安家上臈の梅小路。寛政3年「祐天寺」参照)は、藤波家39代当主季忠の息女で、祐天寺6世祐全の弟子となって祐全坐像を寄進した人物です。裏辻が祐天寺へ信仰を寄せたのは永高院の影響によるものと思われます。
なお、裏辻の妹の歌橋(明治10年「祐天寺」参照)と岩倉(明治16年「祐天寺」参照)も、祐天寺に葬られています。
7月16日、観行院(和宮の生母)の体調があまり良くないのを心配した和宮(文久元年「人物」参照)は、亀戸天神(江東区)か祐天寺のどちらか観行院本人の希望するほうへ内々に祈祷を仰せ付けるようにと、白銀2枚を届けさせました。
20日、観行院の具合が良くならないので祐天寺に祈祷が仰せ付けられました。同時に、伊勢両宮、賀茂下上社、上御霊社(京都市上京区)、清荒神(兵庫県宝塚市)、仏性寺、霊雲寺にも祈祷が仰せ付けられました。27日からは和宮自らが祐天上人像へのお百度参りを始めました。翌日、菊岡が祐天寺に代参して観行院の容態を伝え、祐天寺からお札を持ち帰りました。和宮はお百度参りを続けましたが、8月に観行院は逝去しました。
祐天寺が観行院の葬儀および法事の際の内陣詰と納経拝礼を願い出たところ、泰明院〔11代将軍家斉の息女泰姫。鳥取藩(鳥取県)14代藩主池田斉訓の正室〕葬送の前例にならって納経拝礼のみを許されました。