正月28日、増上寺塔頭の芝宝松院(港区)から11霊の供養を依頼されました。宝松院は、祐天上人の随従であった雲洞が6世住職だったことから、祐天寺と縁の深い寺院です。『本堂過去霊名簿』によると、この11霊は在源、在禅、禅翁、英専、英進、頓成、植本、円寿、周観、孝沾、香禅であると思われます。供養に際する祠堂金として200両が祐天寺へ納められました。
3月、郡山藩(奈良県)藩士の庄司金太郎から、海で遭難するも助かったという文書が祐天寺に奉納されました。内容は次のとおりです。
文久3年(1863)6月25日、1、800石積みの漁船住悦丸は、水主17人と金太郎を含む郡山藩士7人を乗せて品川(品川区)を出帆しました。翌日、浦賀(神奈川県横須賀市)に着き、29日には伊豆(静岡県伊豆市)まで乗り出しましたが、風が悪いので2、3里(約8~12キロメートル)戻ったところで2晩停泊しました。
7月2日にいったん出航したものの、やはり風が悪くなったので浦賀に戻り、7日の朝に再び出航しましたが、8日の夜五つ時(8時)過ぎ頃から墨を流したような空模様となり、大波が押し寄せました。金太郎は助かる見込みはないと覚悟を決めて祐天上人を祈念していたところ、大波により船が壊れて海に放り出され、気が付くと海岸に流れ着いていました。一緒に流れ着いた乗組員とともに山を3つ越し、懐中にあった鰹節で飢えをしのぎながら人里へ行って助けを乞いました。そこは阿波国(徳島県)でした。命が助かったのは祐天上人のおかげだと、いつも身に付けていたお守りを取り出して見ると、守り袋の中は空になっていました。身替わりにお立ちになったのかと伏し拝み、以後は日々祐天上人を拝みました。
8月、日本橋室町(中央区)の7代目竹原文右衛門より竹原家先祖代々の位牌と祠堂金50両が納められました。
10月18日、祐天寺の末庵である大岱村地蔵庵(東村山市。享保14年「祐天寺」・「説明」参照)の本尊修復が済んだため入仏供養が執り行われることになり、祐天寺から代僧1人、添僧1人、説法僧1人、伴僧1人、侍2人、陸尺(駕籠を担ぐ人足)4人、草履取1人、説法僧の供1人の計12人が地蔵庵へ向かいました。
地蔵庵はあらかじめ祐天寺から貸し出された幕や内敷、幡、箱提灯などで飾られ、境内には角塔婆も立てられていました。また、同日より20日までの3日間にわたり説法が行われました。
11月4日、檀林の川越蓮馨寺(埼玉県川越市)39世の観随が遷化しました。法号は心蓮社即誉上人行阿善順観随大和尚です。観随は祐興や学天と同じく順良(知恩院69世)に師事し、祐天上人の法統を受け継いだ僧です。蓮馨寺の再建を果たしたことから、中興の号を諡られました。
また観随は、滝山大善寺(八王子市)・静岡宝台院(静岡市葵区)を歴住した霊丈(明治18年「祐天寺」参照)、岩槻浄国寺(さいたま市岩槻区)・浅草誓願寺(台東区)を歴住した戒心、小松川仲台院(江戸川区)・田戸聖徳寺(神奈川県横須賀市)を歴住し祐天寺16世となった霊俊(明治23年「祐天寺」参照)、増上寺三席に列した観哲(明治5年「祐天寺」参照)など、優れた弟子たちを育てました。
明治34年(1901)12月4日に観随の遺骨は、祐天寺17世愍随により蓮馨寺から祐天寺へ移され卵塔が建立されました。この卵塔にはのちに、明治16年(1883)5月2日に遷化した戒心(法号は摂蓮社善誉上人護法阿愚順戒心大和尚。明治6年「祐天寺」参照)と明治36年(1903)11月3日に遷化した霊俊が合祀されました。