8月、祐天寺に祐天上人名号付きの竹原家供養塔が建立されました。
7代目竹原文右衛門光儀の祖母けい(文久2年「祐天寺」参照)は、若い頃から篤く三宝に帰依し、特に祐天上人の高徳を尊び、祐天上人の名号を刻んだ石塔を祐天寺境内に建立して先祖代々の冥福を祈りたいと長年願っていたそうです。しかし、志を遂げることなく文久2年(1862)8月9日に亡くなったため、その遺志は光儀に受け継がれ、けいの1周忌に果たされました。
供養塔の台石にはけいのほか、けいの夫である5代目文右衛門と、6代目文右衛門夫妻、7代目文右衛門夫妻とその娘、8代目文右衛門とその息子、それぞれの法号が刻まれています。
また、6代目文右衛門の妻つるは下村家(弘化2年「祐天寺」参照)の出身であり、竹原家供養塔の隣には下村家の祐天上人名号付き供養塔も建立されています。
春、西本願寺(京都市下京区)は朝廷に金1万両を献金しました。また、本山を離宮に充てて軍備に供することを願い出ます。これは聞き入れられませんでしたが、万一のときに天皇の住居として使用することとなったため、新たに境内に武芸の道場を設けました。
この頃、世間では尊王攘夷(慶応元年「解説」参照)を巡る対立が激しくなっていきます。西本願寺は諸国に使僧を派遣し、末寺門徒に対し「尊王攘夷の大儀をもって国恩に報いる」という直諭を出しました。
3月4日、将軍家茂が3、000の兵とともに京都二条城(京都市中京区)に入りました。将軍の上洛は3代将軍家光が寛永11年(1634)に30万の大軍を率いて上洛して以来229年振りのことですが、その兵力の差から見て幕府の弱体化は明らかです。
将軍後見職の徳川慶喜(慶応2年「人物」参照)は家茂より先に上洛して、孝明天皇から国事に関しては今後も将軍に委任するという内容の勅旨を得ていました。しかし、同月7日に家茂が参内してみると、尊王攘夷派の揺さぶりにより、場合によっては朝廷も国事に関与するという条件が勅旨に付加されていたのです。朝廷と幕府の間で守られていた政治的な委任関係が崩壊した瞬間でした。
さらに同月11日、家茂は、攘夷祈願のため下鴨神社(同市左京区)・上賀茂神社(同市北区)へ行幸する孝明天皇に同行します。天皇が公式に御所の外に出たのは元和3年(1626)に後水尾天皇が二条城に行幸して以来237年振りのことで、政事の実権を含める何もかもが将軍から天皇に返されたような印象を人々に与えました。
その後も尊王攘夷派の揺さぶりは続き、ついに幕府は実現不可能な攘夷決行の期日を5月10日と返答せざるをえなくなります。
長州藩、攘夷断念
尊王攘夷派の急先鋒であった長州藩(山口県)は、幕府が攘夷決行を約束したことで、ますます勢いづいていました。そして迎えた5月10日、長州藩は無謀にも単独で攘夷を決行します。下関海峡を航行するアメリカ商船ペムブローク号に突如攻撃を開始したのです。
長州藩はさらにフランスとオランダの船をも攻撃します。いずれも撃沈には至りませんでしたが、攻撃された列国が黙っているはずはなく、まもなく報復攻撃が始まりました。
6月1日、アメリカ軍艦ワイオミング号に亀山砲台を破壊されると、長州藩は主力艦を撃沈・大破されます。続いて5日にはフランスの陸戦部隊に上陸され、前田と壇ノ浦(同県下関市)の砲台を破壊されたことで勝負は決しました。それでも長州藩は対岸の小倉藩(福岡県)田野浦(北九州市門司区)を占拠して砲台を築造し、なおも下関海峡における外国船の通行を妨害し続けたのです。
列国が長州藩懲罰のための本格的な計画に乗り出したのは、翌年1月のことでした。当時、長州藩士の伊藤博文(明治18年「人物」参照)と井上馨(明治19年「人物」参照)は藩命により海軍の建設や西洋技術の研究のためイギリスに密留学していたことから、イギリス・アメリカ・フランス・オランダの4国連合艦隊が下関を攻撃する計画を事前に知ります。2人は急遽帰国して戦いを避けるよう訴えますが、2人の説得に耳を貸す藩士はいませんでした。
かくて8月4日、4国連合艦隊が軍艦17隻を率いて下関に姿を現します。5日の夕刻、イギリス艦隊が戦闘の口火を切り、各艦が攻撃を開始。約2、000人の兵に上陸され、8日までにはすべての砲台が破壊・占領されました。さすがの長州藩も戦う気力をなくし、高杉晋作を降伏使として送ると、14日に停戦協約を締結します。
この下関戦争の敗北により長州藩は攘夷の旗を完全にたたみ、以後は開国・倒幕への道を突き進むことになります。
24歳で野村貞貫と再婚した望東尼は、27歳のときに夫婦そろって歌人大隈言道の門に入り女性歌人の道を歩み始めました。『向陵集』は望東尼が言道の門人となった27歳から60歳までの作品を集めたものです。
巻頭の「ただ一夜 我がねしひまに大野なる みかさの山は霞こめたり」は望東尼のおおらかさと気品を感じさせる歌と言われます。望東尼は人生の幸不幸を丹念に詠み込む歌人で、安政6年(1859)に夫の貞貫が亡くなると、しばらくは悲しみや寂しさと向き合う歌を作り続けました。
しかし、その2年後の文久元年(1861)に京都へ旅に出たことが、望東尼の一生を変えることになりました。56歳の望東尼は、京都で尊王攘夷運動を目の当たりにして大きな衝撃を受けたのです。もともと国学の影響を受け、平安時代の王朝を理想としていた望東尼が、尊王思想を持つことは自然な流れでもあったのでしょう。「数ならぬ 此身は苔にうもれても 日本心のたねはくたさじ」といった歌を武器に、戦う尊王家歌人となり、のちには尊王攘夷派の高杉晋作をかくまった罪で、自らも孤島姫島に幽閉されました。望東尼の歌は尊王家として政治にかかわった雄々しさを感じさせる一方で、女性らしいしなやかさは失わなかったため、古今の女流歌人の中にあって異彩を放つ存在と言われています。
三条実美は贈右大臣の実万の4男として京都梨木町(京都市上京区)の邸で生まれました。母は土佐藩(高知県)10代藩主山内豊策の息女の紀子です。三条家は太政大臣に昇ることもできる、摂家に次ぐ名家清華家の1つでした。裕福ではありましたが、ぜいたくを嫌った清倹簡素な暮らしぶりで、まるで中流武士の家庭のようだったと言われています。また、実美は質実剛健な気性に育てたいという実万の意向で、7歳まで洛東の農民である楠六左衛門の家で育てられました。 三条邸に戻ってからの実美は、家臣で尊王攘夷派志士の富田織部の訓育を受け、漢学を池内大学に、国学を谷森種松らに学びました。安政6年(1859)には、安政の大獄により実万が辞官・落飾しますが、この事件をきっかけに実美も政争に巻き込まれることになり、しだいに尊王攘夷思想を強めていきます。
文久2年(1862)に尊王攘夷派の長州藩が、朝廷政局の主導権を握るようになると、実美は公家尊王攘夷派の中心的存在となり、ついに公武合体派の岩倉具視を政局から排除しました。11月には勅使として江戸へ下向し、勅使の待遇を改めさせて朝廷優位を政界に印象付けましたが、翌3年に起きた「8月18日の政変」(元治元年「事件・風俗」参照)により、長州藩とともに京都を追われます。この受難は実美にとってまさに青天の霹靂でした。官位を剥奪された実美は長州藩にかくまわれたものの、第1次長州征伐で長州藩が降伏し、幕府が実美らの引渡しを要求したため、その立場が微妙になります。このときアメリカに逃亡することを提案されますが、実美は「天下の模範となり、万世の標準となることを決めている」と言い拒みました。その後、筑前藩(福岡県)が実美らの身柄引受けを申し出たため、慶応元年(1865)に太宰府に移り、実美はこの地で慶応3年(1867)12月9日の王政復古を迎えることになります。
3年間に及ぶ幽居生活の間にも薩摩藩(鹿児島県)藩士らと連絡を取り合っていた実美は、王政復古の報せを受けるとすぐさま上洛し、27日には議定に任じられました。翌明治元年(1868)1月9日には新政府の副総裁という要職に就任し、閏4月には関東鎮撫の責任者として江戸へ下り、10月には明治天皇を東京(江戸を改称)に迎えるなどの活躍をします。さらに明治4年(1871)7月には、天皇を補佐する政府の最高責任者である太政大臣に昇り詰めました。しかし、明治6年(1873)に征韓論(明治6年「事件・風俗」参照)を巡って対立する西郷隆盛(明治6年「人物」参照)と大久保利通(明治11年「人物」参照)との板挟みに遭い、半ばノイローゼになって心身症の発作を起こして倒れました。
明治18年(1885)に太政官制度が廃止され閑職の内大臣に追いやられると、実美は政治の表舞台からは遠ざかった感がありましたが、明治22年(1889)に黒田清隆内閣が退陣したあとに、一時的とはいえ内閣総理大臣を兼任することもあり、最後まで政府のまとめ役として国事に尽くしました。
幕末に尊王攘夷派の公家として積極的に行動し、時には命の危険も顧みず信念を貫き通した実美ですが、その人柄は穏やかで、晩年は自ら琴を弾き、和歌や書道を楽しんだそうです。政府の最高責任者となって権力を得てからも決しておごることはなく、京都や太宰府にいたときと同じように慎ましく暮らしました。明治24年2月18日、明治天皇が病床の実美を見舞い正一位を授けたその日に55歳で死去し、護国寺(文京区)に埋葬されました。