明顕山 祐天寺

年表

文久02年(1862年)

祐天上人

浄光寺に片岡家供養塔、建立

5月、山形浄光寺(山形県山形市)に、旅籠町の片岡仁兵衛が祐天名号付きの供養塔を建立しました。石塔の側面には片岡正道の歌「雲晴ていさや急かん極楽へ 南無阿弥陀佛の杖にすかりて」が彫られています。

参考文献
祐天名号付き片岡家供養塔(浄光寺)

けい、逝去

8月9日、5代目竹原文右衛門至誠の妻けいが逝去し、祐天寺に法号と祠堂金20両が納められました。法号は貞順院寿誉玉温大姉(文久3年「祐天寺」参照)です。

竹原家は室町3丁目(中央区日本橋)で本両替を営む家でした。本両替とは江戸・大坂・京都の両替商のうち、特に信用・資力の大きな両替商のことです。金銀の売買はもちろんのこと、貸付けや手形の振出し、為替の取組み、預金などを行いました。御国役と称する幕府の公金の出納も取り扱い、諸大名やその他の武士への資金を融通したため勢力を得ましたが、天保12年(1841)に株仲間が廃止されたのちも江戸で引き続き営業していた本両替は三井家、住友家、中井家と、この竹原家だけでした。

参考文献
竹原家位牌、『本堂過去霊名簿』、『日本橋総覧』(小林春吉、日本魁新聞社、1939年)、『国史大辞典』

頼寧、逝去

10月3日、高遠藩(長野県)11代藩主内藤頼寧が逝去し、法号と位牌が祐天寺に納められました。法号は芳言院殿勇誉善郡清閑大居士です。位牌は父の10代藩主頼以(安政3年「祐天寺」参照)と合祀されています。

頼寧は次男でしたが、文政3年(1820)に家督を継ぎ、天保11年(1840)には幕府の若年寄に就任しました。武備を心掛けて自ら江川英龍(弘化3年「人物」参照)に砲術の教練を受け、さらに藩士にも西洋流の訓練を勧めています。また学問を奨励し、産業発展のために産物会所を設立するなど、藩政を積極的に行いました。

参考文献
内藤頼寧位牌、『本堂過去霊名簿』、『三百藩藩主人名事典』

寺院

コレラ流行

7月13日に鎌倉光明寺(神奈川県鎌倉市)95世学天が、台命により知恩院73世となり、8月24日には大僧正に任じられました。知恩院の台命住職は学天が最後で、以後は政府の補任(職に任命すること)となります。

学天が知恩院に入った当時は勤王派と反幕府派が対立しており、それまで徳川家の庇護を受けてきた知恩院にとって厳しい時代でした。そこで学天は、明治天皇東幸の際には御用金5万両を献上しました。そして知恩院宮門跡の尊秀法親王が復飾して華頂宮博経親王となると、宮から宗政の委任を受け、知恩院宮門跡永続の基礎を固めました。また、学天は明治2年(1869)から2度にわたって畿内を巡錫し、廃仏毀釈に動揺する末寺との親近を深めることにも努めています。さらに関東十八檀林が瓦解すると、代わりの教育機関として勧学所を設立し、教学の興隆に努めるなど本山、末寺一門の存立を念じて種々尽力しました。 明治3年(1870)11月26日、67歳で遷化しました。

参考文献
『武江年表』

事件

生麦事件

8月21日、幕府との交渉が思惑どおりに進んだ久光は帰途に着きました。東海道の神奈川宿近在の生麦村(横浜市鶴見区)に差し掛かった午後2時頃のことです。久光の行列を乗馬のまま横切ったイギリス人が殺傷される事件が起きました。「生麦事件」です。

この日、観光目的で来日していた上海在留商人チャールズ・リチャードソンと香港在留商人の妻マーガレット・ボロデール夫人、2人を案内するウィリアム・マーシャルとウッドソープ・クラークは川崎大師(川崎市川崎区)の見物に出掛ける途中でした。「下に、下に」という前触れの意味がわからず、日本の風習を理解していなかったことから起きた悲劇と言われています。リチャードソンが死亡し、マーシャルとクラークが負傷しました。

実は外国人殺傷事件は今回が初めてではありませんでした。万延元年(1860)にはアメリカ公使館の通事ヘンリー・ヒュースケンが殺害され、文久元年(1861)には品川東禅寺(港区)のイギリス公使館が襲撃されるなど、攘夷派の志士による外国人殺傷事件が相次いでいたのです。

このように攘夷派の動きが激しくなった背景には、国内における外国人観の変化がありました。オランダ軍医ヨハネス・ポンペの日記によると、ペリー来航直後の日本人は外国人に対していつも友好的で、お茶を振る舞うなど親切に応対したそうです。しかし、修好通商条約締結後から多くの外国人が来日するようになり、酔って公共の建物に侵入したり、物を壊したりする外国人が増え、ついには死傷者も出たため、日本人は外国人に不信感を抱くようになりました。

また、ユージン・ヴァンリードというアメリカ人が「日本の風習を理解せず、傲慢な振る舞いで災いを招いてしまったのは自業自得だ」と非難したように、生麦事件はイギリス人側にも問題があったと言えます。

しかし、この生麦事件に横浜の居留地の外国人らは激怒し、母国イギリスでも報復論が噴出しました。イギリス代理公使ジョン・ニールは穏便に済ませようと、犯人の処刑と賠償金の支払いを幕府と薩摩藩に要求します。幕府は外圧に屈して賠償金を支払いますが、当事者である薩摩藩は殺傷を当然の措置として取り合わず、犯人の処刑はおろか賠償金の支払いにも応じませんでした。イギリスは強硬姿勢を強め、ついに薩英戦争へと突入します。

文久3年(1863)7月2日、鹿児島湾に進入したイギリス艦隊と薩摩藩の間に戦端が開かれました。わずか半日ほどで鹿児島の市街地の半分が焼け野原となる一方、イギリス艦隊も甚大な被害を受けますが、薩摩藩が犯人の処刑と賠償金の支払いに応じることで和議が成立します。しかし、薩摩藩は賠償金を幕府から借りて踏み倒したうえ、犯人の処刑も行いませんでした。ただし、この薩英戦争により薩摩藩は攘夷が難しいことを悟り、以後は積極的に外国の優れた軍事技術を取り入れていくことになります。

参考文献
『開国と幕末の動乱』(日本の時代史20、井上勲編、吉川弘文館、2004年)、『幕末京都』(川端洋之、光村推古書院、2003年)、『鹿児島県史』3(鹿児島県編集・発行、1967年)、『幕末大全』上(歴史群像シリーズ、学習研究社編集・発行、2004年)、『新国史大年表』

風俗

久光の上洛

この年の1月、和宮(文久元年「人物」参照)降嫁を実現させた公武合体派の老中安藤信正が、坂下門外で襲撃され重傷を負う事件が起きました。「坂下門外の変」と呼ばれるもので、この事件により一時的に幕政が停滞します。

この期をねらったように薩摩藩(鹿児島県)12代藩主島津忠義の父の久光が1、000人の兵を率いて、4月16日に上洛しました。久光は雄藩を加えた公武合体の達成と幕政の改革を朝廷に進言するために上洛したのです。しかし、久光の上洛を知った尊王攘夷思想(慶応元年「解説」参照)を持つ過激派の志士たちは久光を担ぎ上げて京都所司代などを襲撃し、さらには攘夷決行のため倒幕をもくろんでいました。

このときはまだ倒幕の意志を持っていなかった久光は、西郷隆盛(明治6年「人物」参照)に命じて志士たちの動きを沈静させようとしますが失敗。ついに4月23日、久光は船宿寺田屋に潜伏していた薩摩藩士で過激派の有馬新七らの上意討ちを命じました。この「寺田屋事件」により尊王攘夷派の挙兵計画は頓挫します。

久光の断固とした姿勢は朝廷を動かし、久光の建議により幕政改革の勅使が派遣されることになりました。改革の内容は将軍家茂の上洛、五大老(薩摩藩・長州藩・土佐藩・仙台藩・加賀藩で構成)の設置、徳川慶喜を将軍後見職に、松平慶永を大老に登用するというものです。久光は勅使の大原重徳に随行して江戸へ下向し、幕府との交渉に当たり、7月6日には慶喜を将軍後見職に、9日には慶永を政事総裁職に任命させました。

参考文献
『開国と幕末の動乱』(日本の時代史20、井上勲編、吉川弘文館、2004年)、『幕末京都』(川端洋之、光村推古書院、2003年)、『鹿児島県史』3(鹿児島県編集・発行、1967年)、『幕末大全』上(歴史群像シリーズ、学習研究社編集・発行、2004年)、『新国史大年表』

出版

『和訓栞』

日本で初めて50音順に配列された国語辞書です。前・中・後編の3編で構成され、全93巻82冊から成り、載せられた語数は2万1、000語に及びます。この年に中編30巻が刊行されました。

著者の谷川士清は『日本書紀』の注釈を進める中で、1つひとつの言葉をその語源とともに1枚ずつのカードに書きためていました。20数年間にわたって集められたカードを、50音順に配列し直して刊行されたのが本書です。内容は古語や雅語、俗語、方言にとどまらず、朝鮮語やその他の外来語なども取り上げられており、士清の見識の広さを感じさせます。明治時代以降に刊行された国語辞書類と比較しても遜色はなく、多くの研究者に今なお利用されています。

参考文献
『倭訓栞』(谷川士清編、名著刊行会、1990年)、『谷川士清小伝』(谷川士清顕彰保存会編集・発行、1972年)、『日本古典文学大辞典』

人物

松平容保天保6年(1835)~明治26年(1893)

江戸幕府における最初にして最後の京都守護職となった松平容保は、幕末の動乱期に翻弄され、最も苦難を受けた大名の1人と言って良いでしょう。尾張徳川家の支藩である高須藩(岐阜県)13代藩主松平義建の6男として生まれ、12歳で会津藩(福島県)13代藩主松平容敬の養嗣子となり、18歳で家督を相続します。しかし、その翌年には開国を迫るアメリカのマシュー・ペリー率いる艦隊が浦賀に来航し、若き容保は否応なく時代の渦中に巻き込まれていきました。

会津松平家は2代将軍秀忠の4男保科正之を藩祖とする御家門の1つで、容保は養父にして実の叔父でもある容敬から、神道と儒教、そして会津藩の「家訓」を教え込まれました。家訓の第1条に掲げられた「将軍家への絶対の忠勤」が、容保の人生を決定付けたとも言えます。御家門として幕政にかかわることの多かった養父同様、動揺する幕府を支えるために容保も尽力しました。また、桜田門外の変(万延元年「事件・風俗」参照)に憤慨した将軍家茂と水戸家との間を見事に調停したことなどにより、しだいに幕閣内で重んじられるようになり、この高い評価が京都守護職任命へつながったとも言われています。

京都守護職とは将軍家茂の上洛(文久3年「事件・風俗」参照)に備えて、京都市中の治安を確保するために新設された役職です。当初容保は、この職の拝命を固持しました。情勢の不安定な京都の守護は「薪を抱いて火を救う」ようなものだという理由から、家臣に反対されたのです。しかし、大老の松平慶永に「土津公(保科正之のこと)が生きていたなら、必ずこの任務を引き受けただろう」と言われ、容保は引き受けることを決意しました。容保28歳のときです。

着任したての頃の容保は、過激な志士たちとも「話せば必ずわかり合える」という信念のもと、武力によって彼らを鎮圧することはありませんでした。しかし、足利3代将軍の晒し首事件〔京都等持院(京都市北区)にある、室町幕府初代将軍足利尊氏、2代義詮、3代義満の木像の首が三条大橋に晒された事件〕を契機に、容保は一転して攘夷志士たちを徹底弾圧するようになります。さらに薩摩藩と結んで「8月18日の政変」を起こして長州勢力を京都から追い出し、新選組(元治元年「解説」参照)を配下に置いて、尊王攘夷派の掃討に努めました。

容保の尽力に孝明天皇は厚い信頼を寄せ、容保の忠勤に対して深く感じ入った思いを綴った宸筆の御製(和歌)と密書を送ります。このたまわり物により孝明天皇へ絶対的な忠誠心を抱くこととなった容保にとって、慶応2年(1866)のその崩御は大きな痛手でした。同年に将軍家茂も薨去し、代わって15代将軍となった慶喜はあっさりと大政奉還を行い(慶応3年「事件・風俗」参照)大坂城へ退隠します。さらに「鳥羽・伏見の戦い」(明治元年「事件・風俗」参照)が勃発した際も、自ら戦うことなく江戸へ戻った慶喜に、容保は泣く泣く従いました。しかし、謹慎して会津へ戻った容保に対して明治新政府から追討令が出され、容保は孝明天皇の御製を背負って官軍と戦ったと言います。白虎隊(明治元年「解説」参照)や娘子軍などの悲劇を生み、3,000人余りの犠牲者を出した会津戦争は、1か月に及ぶ籠城ののちに降伏。容保は蟄居となります。やがてそれが解かれた容保は、明治13年(1880)に日光東照宮宮司となりましたが、その後も死ぬまで孝明天皇の御製を身に付けていたと言います。

参考文献
『松平容保のすべて』(綱淵謙錠編、新人物往来社、1984年)、『幕末列伝 敗者の美学』(早乙女貢、創美社、2004年)
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