5月、山形浄光寺(山形県山形市)に、旅籠町の片岡仁兵衛が祐天名号付きの供養塔を建立しました。石塔の側面には片岡正道の歌「雲晴ていさや急かん極楽へ 南無阿弥陀佛の杖にすかりて」が彫られています。
8月9日、5代目竹原文右衛門至誠の妻けいが逝去し、祐天寺に法号と祠堂金20両が納められました。
法号は貞順院寿誉玉温大姉(文久3年「祐天寺」参照)です。
竹原家は室町3丁目(中央区日本橋)で本両替を営む家でした。本両替とは江戸・大坂・京都の両替商のうち、特に信用・資力の大きな両替商のことです。金銀の売買はもちろんのこと、貸付けや手形の振出し、為替の取組み、預金などを行いました。御国役と称する幕府の公金の出納も取り扱い、諸大名やその他の武士への資金を融通したため勢力を得ましたが、天保12年(1841)に株仲間が廃止されたのちも江戸で引き続き営業していた本両替は三井家、住友家、中井家と、この竹原家だけでした。
10月3日、高遠藩(長野県)11代藩主 内藤頼寧が逝去し、法号と位牌が祐天寺に納められました。法号は芳言院殿勇誉善郡清閑大居士です。位牌は父の10代藩主頼以(安政3年「祐天寺」参照)と合祀されています。
頼寧は次男でしたが、文政3年(1820)に家督を継ぎ、天保11年(1840)には幕府の若年寄に就任しました。武備を心掛けて自ら江川英龍に砲術の教練を受け、さらに藩士にも西洋流の訓練を勧めています。また学問を奨励し、産業発展のために産物会所を設立するなど、藩政を積極的に行いました。