明顕山 祐天寺

年表

文久元年(1861年)

祐天上人

仁王像、修復

6月15日、仁王像の修復が行われました。棟札の裏に「仏師 宮田亀治良」「大工棟梁 斉藤伊助」と書かれています。伊助は仁王像のほか阿弥陀堂の修復(安政元年「祐天寺」参照)にもかかわっています。

参考文献
仁王像棟札

宝松院より位牌、奉納

この頃、芝宝松院(港区)より合祀位牌が祐天寺に納められました。位牌には知恩院70世歓幢(念成の弟)、増上寺61世念成(頓成の尊師)、知昭(頓成得度の師)、頓成(宝松院歴代)、周観(宝松院歴代)および念成と頓成それぞれの親族が合祀されています。また、位牌の裏には、念成たちの追福のために浄財400金が喜捨され仏具や道場が再建されたこと、さらに常行念仏の資金としても300金が納められ不断念仏が再興されたことが書かれています。

この位牌は頓成が念成や知昭らのために作り、のちに宝松院によって頓成と周観の法号が追記されたと考えられます。頓成は在世中に祐天寺本堂修復のため200両を寄付しており、祐天寺とかかわりの深かった僧です。

参考文献
宝松院合祀位牌、『本堂過去霊名簿』

寺院

学天、知恩院に住す

7月13日に鎌倉光明寺(神奈川県鎌倉市)95世学天が、台命により知恩院73世となり、8月24日には大僧正に任じられました。知恩院の台命住職は学天が最後で、以後は政府の補任(職に任命すること)となります。

学天が知恩院に入った当時は勤王派と反幕府派が対立しており、それまで徳川家の庇護を受けてきた知恩院にとって厳しい時代でした。そこで学天は、明治天皇東幸の際には御用金5万両を献上しました。そして知恩院宮門跡の尊秀法親王が復飾して華頂宮博経親王となると、宮から宗政の委任を受け、知恩院宮門跡永続の基礎を固めました。また、学天は明治2年(1869)から2度にわたって畿内を巡錫し、廃仏毀釈に動揺する末寺との親近を深めることにも努めています。さらに関東十八檀林が瓦解すると、代わりの教育機関として勧学所を設立し、教学の興隆に努めるなど本山、末寺一門の存立を念じて種々尽力しました。 明治3年(1870)11月26日、67歳で遷化しました。

参考文献
『知恩院史』、『浄土宗大辞典』

風俗

和宮、降嫁

孝明天皇の妹である和宮(「人物」参照)の降嫁が、この年の10月に行われました。将軍家茂と和宮の婚礼が画策されたのは、井伊直弼(万延元年「人物」参照)が大老に就任してまもない安政5年(1858)頃と言われています。その目的は、将軍家が朝廷と親族関係を結ぶことにより朝幕間の緊張を緩和し、幕府が朝廷の力を制御して幕府の権威を回復させることにありました。また、反幕運動の緩和を図る目的もありました。

万延元年(1860)5月に関白九条尚忠の仲介により孝明天皇へ和宮降嫁の奏上が行われましたが、和宮は有栖川宮熾仁親王との婚約が決まっており、何よりも和宮自身が不承知であったためこれは却下されます。しかし、幕府も引き下がるわけにはいかず、再三にわたり請願しました。一方で朝廷側でも、この降嫁を機に攘夷決行を幕府に約束させ、さらに朝廷に政治の実権を取り戻させようと画策した岩倉具視(明治16年「人物」参照)の進言を受け入れて、和宮の降嫁が決定します。

和宮は10月20日に京都を出発し、当初は東海道を通行する予定でしたが、沿道の治安が定まらないこともあり、中山道を下っていきました。随行警固に12藩、沿道警固に29藩、さらに行列が通る沿道の諸領における警固、人馬継ぎ、賄い人として動員された農民および町民らは膨大な数に達し、前代未聞の大行列となったようです。また、美濃国赤坂宿(岐阜県大垣市)では中山道に面する家屋などの見苦しい箇所は建替えなどが行われました。これはお嫁入り普請と言われ、その建築費は1、330両にも上ったことが記録に残っています。
 
和宮の持参した婚礼諸道具もおびただしい数に上り、道中ではその荷駄を通すために橋の欄干や門を撤去するところもありました。これらの道具類はもちろんのこと幕府側の用意した品々も、当時の技術の粋を凝らしたものでした。


遣欧使節、出航

12月22日、開市開港延期交渉のために遣欧使節が品川港を出航しました。アメリカ・イギリス・フランス・オランダ・ロシアとの修好通商条約に定められた江戸での開市日〔文久2年(1862)12月2日〕が迫っていましたが、桜田門外の変(万延元年「事件・風俗」参照)が起こるなど国内は不穏な攘夷的風潮が広まっており、幕府は江戸での開市がさらなる内乱を引き起こしかねないと恐れていました。そのため、条約締結国の各公使と開市延期の交渉を行いますが、アメリカが窮状を汲んで延期に同意したのに対し、イギリス公使のラザフォード・オールコックは断固拒絶し「どうしても延期を望むのであれば、本国へ出向いて直接訴えれば良い」と、使節の派遣を勧めました。遣米使節が派遣されたにもかかわらず欧州へは使節が遣わされないことをオールコックは苦々しく思っていたのです。これが遣欧使節派遣の発端となりました。

全権公使として任命された竹内保徳(正使)、松平康直(副使)、京極高朗(目付)の3人をはじめとする使節団は36人に及び、その中には明治の啓蒙思想家として名高い福沢諭吉(明治5年「人物」参照)もいました。パリ、ロンドン、ハーグ、サンクトペテルブルグ、リスボンと、欧州の主要都市を約10か月掛けて巡った一行は、幕府が定めていた貿易に関するさまざまな制限をなくすことなどを条件として開市開港を5年間延期する約定を取り付け、さらに各国で精力的に行った視察から得た貴重な体験を日本へ持ち帰りました。そしてこの使節団の中からは、明治維新期に指導的立場となる知識人が生み出されていったのです。

参考文献
『和宮』(人物叢書、武部敏夫、吉川弘文館、1987年)、『皇女和宮』(東京都江戸東京博物館編集・発行、1997年)、『徳川将軍家歴史大事典』(別冊歴史読本43号、佐藤實編、新人物往来社、2000年)、『オールコックの江戸』(佐野真由子、中央公論新社、2003年)、『幕末遣欧使節団』(宮永孝、講談社、2006年)、『国史大辞典』

芸能

豊介子、逝去

12月15日、石塚豊介子が逝去しました。豊介子は文芸書や演劇、遊里関係の書籍を収集した風俗研究者です。

代表作の『街談文々集要』の「文々」とは文化・文政年間の略で、文化元年(1804)~文政12年(1829)の街談巷説の記録です。この中の「釈迦仏開帳」という項目では、「嵯峨釈迦参詣人数算術位附」という摺り物の全文を写しています。「其人数難計算あらましを積り考へ見るに、先両国橋を升として大かひを計るに、橋の長サ九十三間 幅三間此坪二百七十九坪、但一坪ニ参詣之人数六人立の積りにして橋の上の人六百七十四人……」というように細かく計算し、さらに1日の参詣人数を26万7、300人と割り出して、1人が手水鉢、本堂、開帳仏前にそれぞれ1文ずつ賽銭を献じると締めて金122両3分余りになると計算しています。豊介子の好奇心旺盛な様子が目に浮かぶような書物です。

参考文献
『江戸学事典』(西山松之助ほか編、弘文堂、1994年)、『街談文々集要』(近世庶民生活史料、鈴木棠三編、三一書房、1993年)、『朝日日本歴史人物事典』

人物

和宮(静寛院宮) 弘化3年(1846)~明治10年(1877)

昭和33年(1958)、和宮の墓所改葬に伴う発掘調査が行われました。そのとき、和宮は1枚の湿板写真を抱いた姿で発見されました。そこに写っていたのは、長袴の直垂に立烏帽子を被った若い男性でした。不幸にしてその写真は取扱い上の不手際から膜面が消失してしまい、二度と影像を見ることはできなくなってしまいましたが、14代将軍家茂(安政5年「人物」参照)の姿であったと言われています。

和宮は、弘化3年に仁孝天皇の末子として、母橋本経子との間に生まれました。孝明天皇とは母親違いの兄妹となります。和宮誕生に先立ち父の仁孝天皇が崩御したため、命名などの儀式は孝明天皇によって行われました。公武合体という政治的な画策により有栖川宮熾仁親王との婚約を破棄させられ、嫌々ながら家茂の御台所として江戸へ降嫁(「事件・風俗」参照)しますが、夫婦仲は良かったと言われています。

和宮と家茂の仲を示すエピソードが残っています。家茂と和宮、天璋院(安政3年「人物」参照)の3人が浜御殿へ御成の際、家茂の草履だけが踏み石の下に置かれていました。それを見た和宮は飛び降りて自分の草履をどけ、家茂の草履を踏み石の上に置き、お辞儀して家茂を迎えたというものです。家茂の3度の上洛に際しては、家茂の産土神である氷川神社(港区)に祈祷を命じ、自らは増上寺黒本尊にお百度を踏んで道中安全の祈願を行いました。しかし3度目の上洛、すなわち長州征伐のため大坂にいた家茂は病床に伏し、21歳の若さで急死します。2人の結婚生活は4年余りと短いものでした。

和宮は家茂の葬儀を済ませたあと、落飾して静寛院と号します。時世の変化により、当初和宮が降嫁した目的である攘夷を果たす必要もなくなり、和宮が江戸にとどまる理由もないため帰京する決心を固めていました。しかし明治元年(1868)、家茂の跡を継いだ15代将軍慶喜が鳥羽・伏見の戦い(明治元年「事件・風俗」参照)に敗れ朝敵となったことにより事態は一転、姑の天璋院とともにそれぞれ皇室出身、薩摩藩(鹿児島県)出身という立場から徳川家の家名存続および慶喜の助命嘆願に尽力することとなります。かつての許嫁であった熾仁親王を東征大総督とする官軍発進の報せを受けた和宮は、従兄弟の橋本実梁に書状を送り「徳川の家名存続が認められないのなら自らの死も辞さない」と表明しています。和宮の各方面への周旋のかいあって、慶喜は死罪を免れ謹慎となり、徳川の家名も存続を許されるという寛大な処分が決定しました。それとともに和宮は江戸城を出て、御三卿の1つの清水邸に移ります。

徳川家の処分が決定したあと、和宮は明治2年(1869)に帰京し、再び東京に移居するまでの5年間を京都で過ごしますが、東京に戻ったあとは天璋院、家達をはじめ徳川家の人々との親交を深めました。明治10年に脚気(慶応2年「解説」参照)治療のため箱根塔ノ沢湯元長平の館(現、環翠楼)に赴き、そのまま帰らぬ人となり32歳の生涯を終えます。葬儀は増上寺69世石井大宣によって執り行われ、和宮の遺言どおり家茂のそばに葬られました。

参考文献
『皇女和宮』(東京都江戸東京博物館編集・発行、1997年)、『和宮御事蹟 附静寛院宮日誌』(桑原随旭、増上寺、1921年)、『和宮』
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