明顕山 祐天寺

年表

万延元年(1860年)

祐天上人

典応、遷化

5月12日、芝真乗院(港区)8世典応が遷化し、祐天寺に法号と祠堂金50両が納められました。法号は無量寿院僧正廓蓮社得誉上人無生忍阿典応大和尚です。

典応の位牌は、文久3年(1863)に遷化した9世正順と慶応2年(1866)に遷化した正道とともに合祀されてのちに納められました。正順と正道の法号はそれぞれ専蓮社念誉上人定阿願故正順大和尚、実蓮社.誉上人専阿唯楽正道老和尚です。正順が遷化した際にも祐天寺へ金50両が納められました。

参考文献
典応ほか合祀位牌、『本堂過去霊名簿』

霊殿、建立

天英院(寛保元年「人物」参照)の没後に、幕府から拝領した江戸城の材木で建築した天英院仏殿(延享2年「祐天寺」参照)が大破したため、新たに将軍家代々の霊殿(現、祐天寺本堂内々陣)として建て直されることが決まり、10月24日に上棟式が行われました。間口5間(約9.1メートル)、奥行4間(約7.3メートル)の、ひさし付きの建物です。棟木には祐興が「公儀御代々様御霊殿惣新規建立」と書したほか、芝(港区)宿坊の霊丈、役僧の真巖(のちの祐天寺14世祐真)、納所の祐巖、納戸の真順の名が記されています。

参考文献
将軍家代々霊殿棟木

寺院

清凉寺の出開帳

5月15日より本所回向院(墨田区)において、嵯峨清凉寺(京都市右京区)の本尊釈迦如来像の出開帳が行われました。

この年の出開帳は雨に見舞われたものとなりました。釈迦如来像が京都を出立したときも大嵐で、到着した10日も大雨だったため、迎えに出た市中富士講、念仏講、成田講の講員や近在の若者たちは大変難儀したそうです。開帳初日もまた雨が降りました。さらに7月23日の夜から翌朝に掛けての暴風雨により開帳小屋がつぶれるなどして会場が大破し、一時は小石川伝通院(文京区)の大黒堂へ遷座しました。8月15日より再び回向院にて開帳が行われ、9月21日に閉帳となりました。


教音、増上寺に住す

12月24日、鎌倉光明寺(神奈川県鎌倉市)94世教音が増上寺67世および大僧正に任じられました。

教音は文久元年(1861)に、霊屋の修理や、金地院(港区)の土地1、800坪の購入などにより境内整備に尽力しました。翌年には幕府から市内貧民施与の事業により表彰されました。また慶応元年(1865)、長州征伐などにおける戦死者の追悼法会を行いました。同年12月16日に隠退し、慶応3年(1867)10月17日に遷化しました。70歳でした。

参考文献
『藤岡屋日記』9(近世庶民生活史料、鈴木棠三ほか編、三一書房、1991年)、『武江年表』、『浄土宗大辞典』、『大本山増上寺史』本文編

事件

桜田門外の変

3月3日は季節はずれの吹雪の朝でした。上巳の節句の祝賀のため、大老井伊直弼(「人物」参照)は午前8時過ぎに彦根藩(滋賀県)藩邸を出発しました。60余人の家臣に前後を護られて、午前9時頃に江戸城の桜田門へ差し掛かったときのことです。

そこでは大名行列の見物人を装った浪士たちが直弼を待ち構えていました。打合せどおり水戸浪士の森五六郎が直訴を装って先頭に近寄り、突如斬り掛かると、同じく水戸浪士の黒沢忠三郎が直弼の乗る駕籠を目掛けて短銃を発射。この銃声が合図となって、ほかの浪士たちがいっせいに斬り掛かり、薩摩浪士の有村次左衛門が直弼の首を落としました。最初に忠三郎の放った銃丸が直弼の太腿から腰にかけて貫通し、直弼はすでに身動きがとれなくなっていたと言われます。

直弼を襲ったのは水戸浪士17人と薩摩浪士1人の計18人でした。この暗殺は、安政の大獄(安政6年「事件・風俗」参照)に対する水戸藩(茨城県)藩士たちの恨みから起きたもので、浪士たちの持っていた訴状には「幕府への敵対ではなく、直弼の不忠と売国行為に天誅を加えるためだ」と書かれていたそうです。幕府の最高権力者が暗殺されたこの事件により、尊王攘夷派の勢いは一層活発化し、幕府は崩壊に向かって大きく揺らぎ始めます。

参考文献
『咸臨丸太平洋を渡る』(横浜開港資料館編集・発行、2000年)、『幕末デキゴトロジー』(桐山光弘、島影社、2000年)、『見る・読む・わかる 日本の歴史』4近代・現代(井上勲ほか編、朝日新聞社、1993年)、『彦根市史』中(中村直勝編、彦根市役所、1962年)、『読める年表』(川崎庸一ほか監、自由国民社、1991年)、『目からウロコの幕末維新』(山村竜也、PHP研究所、2000年)

風俗

咸臨丸、出航

1月19日、「日米修好通商条約」(安政5年「事件・風俗」参照)に批准するための遣米使節の随行艦として、軍艦咸臨丸が浦賀港(神奈川県横須賀市)を出港しました。船将の木村摂津守喜毅や船長の勝海舟(明治元年「人物」参照)など、乗組員はすべて長崎海軍伝習所(安政2年「事件・風俗」参照)などで新しい航海術を身に付けた日本人で、日本初の太平洋横断への試みでもありました。しかし、航海経験の少ない彼らが、海の難所と言われる冬の太平洋を航行するのは危険すぎる行為と思われました。難航を案じた喜毅は、日本近海で船が座礁したため滞在していたアメリカ人水兵を、帰国させる名目で同行させます。案の定、喜毅の不安は的中しました。

使節随行艦とは言いながらも咸臨丸は、遣米使節の乗った船が南寄りの航路を取ったのに対して北寄りの航路をたどり、出航して3日目で北太平洋の温帯低気圧の中に突入します。経験したことのない激しい暴風雨に翻弄され、ほとんどの乗組員が船酔いなどで倒れたのです。難破を免れない状況を救ったのは同行したアメリカ人水兵と、通訳として乗り込んだジョン万次郎(嘉永4年「事件・風俗」参照)でした。

およそ40日間の航海の末にようやくサンフランシスコ港に到着した咸臨丸一行は、アメリカで大歓迎を受けました。歓迎会やダンス・パーティーが催され、咸臨丸船体は無償で修理を受けます。そしてその合間に一行は、工場や劇場、教会などを訪れ、アメリカ滞在は53日間に及びました。咸臨丸が浦賀港に帰るのは5月5日のことです。一方で遣米使節の乗った船は咸臨丸より12日遅れてサンフランシスコ港に到着し、ワシントンで条約批准後、アフリカの喜望峰を巡りインドネシアを経て、9月27日に品川港に帰り着きました。

参考文献
『咸臨丸太平洋を渡る』(横浜開港資料館編集・発行、2000年)、『幕末デキゴトロジー』(桐山光弘、島影社、2000年)、『見る・読む・わかる 日本の歴史』4近代・現代(井上勲ほか編、朝日新聞社、1993年)、『彦根市史』中(中村直勝編、彦根市役所、1962年)、『読める年表』(川崎庸一ほか監、自由国民社、1991年)、『目からウロコの幕末維新』(山村竜也、PHP研究所、2000年)

芸能

井伊直弼 文化12年(1815)~万延元年(1860)

正月、市村座で河竹黙阿弥作の歌舞伎『三人吉三廓初買』が初演されました。黙阿弥の白浪物の中でも傑作の1つです。

女装の盗賊お嬢吉三が大川端で、夜鷹のおとせから奪った100両の財布を眺め、謡うように述べる「月も朧に白魚の篝も霞む春の空、つめたい風もほろ酔に心持好く浮か〱と、浮れ烏の只一羽、塒へ帰る川端で、棹の雫か濡手で粟、思ひがけなく手に入る百両」は、名ぜりふとして現代にまで知られています。

また、このお嬢吉三のほか、和尚吉三、お坊吉三という2人を合わせて「吉三」と名の付く3人の盗賊が、義兄弟の契りを結ぶ場面も有名です。

参考文献
『三人吉三廓初買』(岩波文庫、河竹繁俊校訂、岩波書店、1938年)、『歌舞伎年表』

人物

入江長八 文化12年(1815)~明治22年(1889)

井伊直弼は彦根藩11代藩主直中の14男として彦根城内で生まれました。幼名を鉄之助と言い、5歳で母と、17歳で父と死別します。やがて城下の尾末町屋敷(滋賀県彦根市)に移り、わずかな禄を与えられ部屋住の生活を送っていました。

天保5年(1834)の秋、直弼は弟の直恭とともに延岡藩(宮崎県)内藤家への養子候補として江戸へ呼ばれます。直弼は日用品のすべてを友人たちに分け与えて意気揚々と江戸へ向かいましたが、その1年後、養子に選ばれたのは直恭でした。彦根に戻った直弼は尾末町屋敷を「埋木舎」と名付け「これからは埋もれ木のように暮らしていくのか」と悲観しますが、やがてこの埋木舎は直弼の精神修養の場となっていきます。

直弼の関心は武芸では居合術や槍術、学問では国学や和歌、そのほか茶道に向けられました。なかでも居合術は一派を創立するほどの達人でしたし、茶道でも奥義を極めて一派を立て、のちに『茶湯一会集』(安政5年「出版・芸能」参照)を著しています。また、父親の影響と言われますが、直弼は幼い頃より仏道にも深い関心を寄せ、行く行くは仏門に入ることを望んでいました。天保14年(1843)頃、長浜大通寺(滋賀県長浜市)より彦根藩に、直弼を法嗣に迎えたいという話が持ち上がった際には直弼も強く志願したそうです。しかし、大通寺入寺の件は不調に終わりました。直弼が弘化3年(1846)2月に12代藩主直亮の世子となり、嘉永3年(1850)9月には彦根藩13代藩主となったからです。

直弼が彦根藩主になるとは、本人にとっても予期せぬ出来事だったに違いありませんが、直弼のほかに彦根藩を継ぐことができる男子はいなかったのです。井伊家は譜代大名の中でも筆頭を務める特別な家格で、江戸城の溜間に詰めて老中とともに政治に参画することができました。しかし、自らを「木訥者」と称した直弼にとって溜間詰という立場は荷が重く、時には自信を失って家格に伴う重責に苦しんだと言われています。それでも、時代の波は容赦なく直弼を飲み込みました。

海岸防備の先頭に立っていた彦根藩は、早い段階から家臣を長崎へ派遣し、国際情勢を探らせていたため、直弼も日本と外国との軍事力の差を正確に認識していました。ペリー来航に対し幕府が開国か拒絶かで揺れる中、直弼が一貫して開国を主張したのは、アメリカと戦えば負けるとわかっていたからです。しだいに直弼は幕閣たちの支持を集め、安政5年(1858)4月に「日米修好通商条約」の調印問題を打開するため大老となり、6月には勅許を得られないまま調印を断行します。次いで徳川慶福の継嗣決定を公表し(安政5年「事件・風俗」参照)、条約締結反対派と一橋派を幕府から追放しました。さらに安政の大獄(安政6年「事件・風俗」参照)では御三家はもとより親藩・外様の大名、宮家や摂家にまで徹底的な弾圧を加えます。直弼は外国からの圧力に対抗するためには、たとえ強引であっても反対派を一掃し、挙国一致の体制を早く築かなければと焦っていたのでしょう。それゆえに多くの敵を作り過ぎました。

万延元年3月3日、桜田門外の変(「事件・風俗」参照)により46年の生涯を閉じた直弼は、明治に入ってからも勅許を得ずに条約調印したことを売国行為と非難され、「国賊」と断じられました。しかし、当時すでに清がイギリスやフランスの植民地にされていたことを思えば、日本は直弼の優れた外交感覚により植民地化の危機から救われたとも言えるのです。

参考文献
『井伊直弼』(幕末維新の個性6、母利美和、吉川弘文館、2006年)、『井伊直弼』(人物叢書、吉田常吉、吉川弘文館、1985年)、『目からウロコの幕末維新』、『国史大辞典』、『朝日日本歴史人物事典』
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