明顕山 祐天寺

年表

安政06年(1859年)

祐天上人

定泉寺に田中家墓、建立

駒込定泉寺(文京区)にある祐天名号付き田中家墓には、この年の正月11日の日付が彫られています。

参考文献
祐天名号付き田中家墓(定泉寺))

真巖の母、逝去

10月24日、真巖(のちの祐天寺14世祐真)の母絹が逝去し、嘉永3年(1850)2月24日に逝去した真巖の父嘉六と合祀された位牌が祐天寺に納められました。母の法号は良空真応妙智禅定尼、父の法号は俊空遜阿良智禅定門です。

参考文献
真巖両親位牌、『本堂過去霊名簿』

寺院

金光教

金光教とは、備中(岡山県)の農民であった川手文治郎(金光大神)が開いた習合神道系の創唱宗教です。この年、文治郎は神から「立教神伝」を受けたことにより農業を辞め、自宅を広前(神の御前)として神に仕え、訪れる人々の願い事を神に祈念しました。

この地方は児島五流山伏の拠点で、「祟り神金神」が広く信仰されてきました。人々は金神に逆らわないように、たたりを避ける反面、その強烈な神威にすがって、さまざまな現世利益を求めていました。文治郎は誠実勤勉な生活者を神が苦しめるはずはないとの確信に立ち、祟り神として畏れられていた金神を天地の祖神、愛の神の「天地金乃神」であるとしました。

金光教の教義ではすべての人間は天地金乃神の氏子であり、神と氏子は互いに助け合う関係にあるとしています。そして広前で金光大神が神に祈念し、信者に対して平静に神の言葉を取り次ぐ「取次ぎ」という布教方式がとられました。

幕末に成立した民衆宗教の中で金光教は、シャマニズムの傾向がきわめて希薄であり、信仰の個人化と内面化を推し進め、政治を相対化して考えました。つまり、政治と信仰はあくまで別次元のものと考え、政治権力の絶対化、神聖化を許しませんでした。

参考文献
『金光大神覚』(東洋文庫304、村上重良校注、平凡社、1977年)、「金光教」(小沢浩、『講座・日本の民俗宗教』5、弘文堂、1980年)、「金光大神と金光教」(村上重良、『民衆宗教の思想』日本思想大系67、岩波書店、1971年)

風俗

自由貿易、開始

6月2日、横浜・長崎・箱館の3港で、ロシア・オランダ・アメリカ・イギリス・フランスの5か国との自由貿易が始まりました。しかし、外国商人たちは自由な場所で営業ができたわけではなく、港の一定区域内に設置された居留地内に限られていました。また、実は各国との間で締結された修好通商条約(安政5年「事件・風俗」参照)で定められた開港地は東海道の1宿である神奈川(横浜市神奈川区)でしたが、幕府は往来の激しい神奈川宿に外国人が出入りするようになれば攘夷派の武士たちの反感をあおりかねないと危惧しました。そこで、小さな漁村だった横浜村(同市中区)の入り江を多大な費用を掛けて埋め立てて整備し、横浜も神奈川の一部だと主張したのです。条約違反だと憤慨する各国公使を尻目に、外国商人たちは次々と横浜に店を構えていきました。

主な輸出品は生糸、茶、蚕卵紙で、綿糸、絹織物、砂糖や武器類などが輸入されました。特に生糸は非常に需要が高かったためにどんどん輸出に回され、そのために絹織物の生産地である桐生(群馬県)では、生糸の品不足とその価格の急騰に村民の生活が脅かされるようになり、輸出禁止の申し立てを行ったほどです。さらに江戸では生糸のほかにも雑穀、水油、蝋、呉服など、日常生活に欠かせないものが品不足となり、物価が高騰します。そのため幕府はこれら5つの品は必ず江戸の問屋を通してから横浜港に送るよう達しを出しますが、横浜の商人たちの反対に遭って、この指示はほとんど黙殺されたようです。


安政の大獄

大老の井伊直弼(万延元年「人物」参照)と老中の間部詮勝らが行った政治的弾圧事件です。「日米修好通商条約」の調印と14代将軍家茂の将軍職継承に反対した尊王攘夷派と一橋派の大名および公卿が対象となり、延べ100人以上が処罰されました。

前年(1858)8月、幕府が勅許を得ずして日米修好通商条約に調印したことをとがめる「戊午の密勅」が水戸藩(茨城県)に届けられていました。孝明天皇のこの行動は、武士の統率者たる将軍を無視するものです。もし一橋派が天皇と組んで巻き返しを図れば、幕府の体制を揺るがしかねないと考えた直弼は、一橋派を根絶やしにするための徹底的な弾圧に踏み切りました。翌9月に元小浜藩(福井県)藩士の梅田雲浜が水戸藩降勅の首謀者として逮捕されたのを皮切りに、安政6年1月には青蓮院・有栖川宮家をはじめ鷹司・近衛・三条家の家臣、水戸藩京都留守居の鵜飼吉右衛門親子らが逮捕されました。

逮捕された者たちは江戸の伝馬町牢(中央区)へ送られ、8月から10月に掛けて処罰されていきました。水戸藩家老の安島帯刀、越前藩(福井県)藩士の橋本左内、儒者の頼三樹三郎、長州藩(山口県)藩士の吉田松陰ら8人が死罪などの極刑に処せられ、また彼らに連坐する者として庶民や僧侶、婦女子にまで処罰が及びました。大名や公家も例外ではなく、徳川斉昭が永蟄居、徳川慶喜と山内容堂が隠居・謹慎、近衛忠煕が辞官・落飾、鷹司政通や三条実万らが隠居・慎に処せられました。前将軍の御台所である天璋院の養父忠煕まで追い込んでしまったことは行き過ぎとしか言いようがありません。さらに直弼は、反直弼派とはいえ密勅とは関係のない岩瀬忠震や川路聖謨など有能な幕臣も処分したため、幕府のさらなる弱体化を招きます。

参考文献
「国際環境と外国貿易」(杉山伸也、『開港と維新』日本経済史3、岩波書店、1989年)、『幕末 乱世の群像』(吉田常吉、吉川弘文館、1996年)、『彦根市史』中(中村直勝編、彦根市役所、1962年)、『オールコックの江戸』(佐野真由子、中央公論新社、2003年)、『日本全史』

出版

『広益国産考』

江戸時代の3大農学者の1人、大蔵永常による農業指導書『広益国産考』が、江戸や大坂、京都の書店で同時に出版されました。農業と商業を結び付けて捉え、生産物を加工して商品として売り、現金収入を得ることが農民の生活を豊かにすると考えた永常の、農学研究の集大成とも言うべき全8巻の大著です。

例えば樹木の項では、栽培に適した土地の選び方から苗木の育て方、加工の仕方や出荷するまでの過程が解説されています。こうした解説は食用の作物に限らず、畳の原料となるイグサや染料となるムラサキグサのような工芸作物、カラスウリのような薬用植物などすべてに付けられました。なかには渋柿を甘くする方法などもあり実用的です。また、副業として土人形を作ることやミツバチの飼育なども勧めています。商品化しやすい農産物に重点を置いているのは、貧しい農民たちを商人の立場に近付けようと考えていたことの現れでしょう。平易な文章と挿絵の多用から、永常の農民に対する温かな眼差しが感じられます。

参考文献
『大蔵永常資料集』3(大分県先哲叢書、大分県立先哲史料館編、大分県教育委員会、2000年)、『古典の事典』14(古典の事典編纂委員会編、河出書房新社、1986年)、『百姓の義』(大野和興編、社会評論社、1990年)

人物

入江長八 文化12年(1815)~明治22年(1889)

鏝絵と呼ばれる漆喰細工を芸術の域にまで高めた人物「伊豆長八」こと入江長八は、伊豆国松崎(静岡県賀茂郡)の農家の家に生まれました。子どもの頃は、入江家の菩提寺であり寺子屋も開いていた松崎浄感寺(同郡)へよく出入りして、当時の住職である正観にとてもかわいがられました。正観は徳が高く人々に慕われ、疲弊していた浄感寺を復興させたことからのちに中興となった人物です。

12歳の頃、近所に住む左官の棟梁関仁助のもとへ奉公に上がった長八は、もともと手先が器用だったため、あっと言う間に兄弟子たちをしのぐ腕前となりました。そのため長八は兄弟子たちから恨みや妬みを買い、時には殺されそうになったこともあったと言われています。しかし、長八は単なる左官職人で満足することはありませんでした。19歳の頃に絵を学ぶため江戸へと旅立つと、日本橋(中央区)榑正組の波江野亀次郎のもとで左官として生計を立てながら、谷文晁の高弟喜多武清に師事して狩野派の絵を学び始めました。そして27歳の頃、日本橋茅場町にある薬師堂の再建の際に、左右の御拝柱に見事な昇り龍と下り龍の絵を描いたことから、「伊豆長八」として一躍有名になります。しかし職場では、普通の左官職人が印半纏を着て作業するところを着物にたすき掛けという格好で通し、それでいてどんな難しい仕事も速く見事に仕上げる長八は、江戸でも同僚たちの反感を買っていたそうです。

長八が美しく彩色された鏝絵を描くようになるのは、31、2歳の頃と言われます。浄感寺本堂が再建されたとき、長八は欄間に飛天の鏝絵を描きました。漆喰はアクが強いため、彩色を施すには工夫が必要となります。長八はさまざまな試行錯誤の末に、漆や膠を使ってアクを抑えて彩色する方法にたどり着きました。長八の描く鏝絵は肉薄ながらも、漆喰彫刻の立体感を見事に生かした陰影に富み、独特の落ち着いた風格のある彩色は、まさに「名工」の名にふさわしいものです。

長八に関する伝説は数多く、なかでも長八が魚問屋から依頼された「魚尽くし」の鏝絵に描かれた鯛を、1人の魚屋の少年に「あれは伊豆の鯛だ」と言われたことに発奮し、少年に江戸前の鯛を買ってこさせたところ、その違いに愕然として作品を塗り直したという話は特に有名で、長八の常に絵に対して進歩し続けようとする姿勢がうかがえます。

長八の作品には「天祐」の落款が使われることが多くありましたが、この号を使うようになった経緯は、長八が浄感寺再建後に再び江戸へ出てきた頃、祐天寺において仏典を学び、祐興(弘化元年「祐天寺」参照)に帰依したことによると言われています。長八はその同じ頃と思われる安政3年(1856)に成田不動尊に参籠し、このとき描いた「臼に鶏」の絵馬に「天祐」の号を初めて使用しています。当時成田山では本堂再建の普請が行われており、この絵馬は同時期に行われた深川永代寺(江東区)での成田不動の出開帳の際に、榑正組より成田山へ奉納されました。また長八は、晩年には伊豆龍澤寺(静岡県三島市)に参禅などしており、信仰心の篤い人物だったようです。 
60歳を超える頃から精力的に作品を制作するようになり、その技術も円熟していきました。明治10年(1877)の第1回内国勧業博覧会に出品し見事受賞してさらに名声を博すと、鏝絵だけでなく塑像や彫刻、絵画にも優れた作品を残しました。没する寸前まで鏝絵を描き続けた長八は晩年、弟子たちに「鏝になりきって仕事しろ」と言い聞かせていたと言います。辞世の句は、
 我秋や 月一と夜も 見のこさす
享年は75歳でした。

参考文献
『伊豆長八』(結城素明、芸艸堂、1938年)、『伊豆長八作品集』(清水真澄ほか編、松崎町振興公社、1990年)
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