駒込定泉寺(文京区)にある祐天名号付き田中家墓には、この年の正月11日の日付が彫られています。
10月24日、真巖(のちの祐天寺14世祐真)の母絹が逝去し、嘉永3年(1850)2月24日に逝去した真巖の父嘉六と合祀された位牌が祐天寺に納められました。母の法号は良空真応妙智禅定尼、父の法号は俊空遜阿良智禅定門です。
文化12年(1815)~明治22年(1889)
鏝絵と呼ばれる漆喰細工を芸術の域にまで高めた人物「伊豆長八」こと入江長八は、伊豆国松崎(静岡県賀茂郡)の農家の家に生まれました。子どもの頃は、入江家の菩提寺であり寺子屋も開いていた松崎浄感寺(同郡)へよく出入りして、当時の住職である正観にとてもかわいがられました。正観は徳が高く人々に慕われ、疲弊していた浄感寺を復興させたことからのちに中興となった人物です。
12歳の頃、近所に住む左官の棟梁関仁助のもとへ奉公に上がった長八は、もともと手先が器用だったため、あっと言う間に兄弟子たちをしのぐ腕前となりました。そのため長八は兄弟子たちから恨みや妬みを買い、時には殺されそうになったこともあったと言われています。しかし、長八は単なる左官職人で満足することはありませんでした。19歳の頃に絵を学ぶため江戸へと旅立つと、日本橋(中央区)榑正組の波江野亀次郎のもとで左官として生計を立てながら、谷文晁の高弟喜多武清に師事して狩野派の絵を学び始めました。そして27歳の頃、日本橋茅場町にある薬師堂の再建の際に、左右の御拝柱に見事な昇り龍と下り龍の絵を描いたことから、「伊豆長八」として一躍有名になります。しかし職場では、普通の左官職人が印半纏を着て作業するところを着物にたすき掛けという格好で通し、それでいてどんな難しい仕事も速く見事に仕上げる長八は、江戸でも同僚たちの反感を買っていたそうです。
長八が美しく彩色された鏝絵を描くようになるのは、31、2歳の頃と言われます。浄感寺本堂が再建されたとき、長八は欄間に飛天の鏝絵を描きました。漆喰はアクが強いため、彩色を施すには工夫が必要となります。長八はさまざまな試行錯誤の末に、漆や膠を使ってアクを抑えて彩色する方法にたどり着きました。長八の描く鏝絵は肉薄ながらも、漆喰彫刻の立体感を見事に生かした陰影に富み、独特の落ち着いた風格のある彩色は、まさに「名工」の名にふさわしいものです。
長八に関する伝説は数多く、なかでも長八が魚問屋から依頼された「魚尽くし」の鏝絵に描かれた鯛を、1人の魚屋の少年に「あれは伊豆の鯛だ」と言われたことに発奮し、少年に江戸前の鯛を買ってこさせたところ、その違いに愕然として作品を塗り直したという話は特に有名で、長八の常に絵に対して進歩し続けようとする姿勢がうかがえます。
長八の作品には「天祐」の落款が使われることが多くありましたが、この号を使うようになった経緯は、長八が浄感寺再建後に再び江戸へ出てきた頃、祐天寺において仏典を学び、祐興(弘化元年「祐天寺」参照)に帰依したことによると言われています。長八はその同じ頃と思われる安政3年(1856)に成田不動尊に参籠し、このとき描いた「臼に鶏」の絵馬に「天祐」の号を初めて使用しています。当時成田山では本堂再建の普請が行われており、この絵馬は同時期に行われた深川永代寺(江東区)での成田不動の出開帳の際に、榑正組より成田山へ奉納されました。また長八は、晩年には伊豆龍澤寺(静岡県三島市)に参禅などしており、信仰心の篤い人物だったようです。
60歳を超える頃から精力的に作品を制作するようになり、その技術も円熟していきました。明治10年(1877)の第1回内国勧業博覧会に出品し見事受賞してさらに名声を博すと、鏝絵だけでなく塑像や彫刻、絵画にも優れた作品を残しました。没する寸前まで鏝絵を描き続けた長八は晩年、弟子たちに「鏝になりきって仕事しろ」と言い聞かせていたと言います。辞世の句は、
我秋や 月一と夜も 見のこさす
享年は75歳でした。