3月9日、土佐藩(高知県)10代藩主山内豊策の側室である祐照院(11代藩主豊興の母で、名は於類衛。児玉氏の出身)が逝去して祐天寺に葬られ、法号が納められました。法号は祐照院殿寛誉操運貞光法尼です。享年85歳でした。
祐照院が祐天寺で逆修を受けていることや、祐照院の姉などの法号も納められていることから、祐照院が祐天寺に深く帰依していたことがわかります。
4月上旬、木戸(千葉県山武郡)の椎名惣左衛門宅で、祐天上人百体名号軸の箱が作成されました。この名号は縦20センチメートル、横8.4センチメートルの小さな本紙に名号100遍が書かれています。 祐天上人が銚子(同県銚子市)に赴く途中、当時名主だった惣左衛門の祖先の家に泊まったため、その宿泊のお礼として書いたものと言い伝えられています。
4月、祐天寺に「舞ふ蝶の 音聞ほとの みやまかな」という句碑が建立されました。
建立者は江戸町火消や組の小次楼、俳句の詠者は平二です。
5月26日、田安家の御簾中附き老女の八重尾が逝去し、祐天寺に法号と祠堂金30両が納められました。法号は円珠院法誉映心大姉です。
八重尾は生前に家族の法号も納めています。
5月、江戸町火消六番組の位牌(明治16年「祐天寺」参照)が祐天寺に納められました。祐興の名号と「組合之面々先祖代々恩怙怨敵一切諸群霊位哀愍護念各々業障消滅子孫繁栄相続安全」という文が位牌の表に記され、裏にはな組、む組、う組、ゐ組、の組、お組の各組の人名が記されています。
6月21日、生実藩(千葉県)10代藩主の森川俊位が逝去し、祐天寺に法号と位牌が納められました。法号は謙恭院殿前羽州大守儀山公賢大居士です。位牌には玉林院殿金葉躰露禅童子が合祀されています。
6月、祐天寺の閻魔王坐像が修復されました。修復を務めた仏師は、麹町13丁目(新宿区)福神前の大仏師である宮尾正慶です。この閻魔王坐像は天明8年(1788)12月に、覚道坊が願主となり、仏師の小倉七右衛門により再興されたものです(天明8年「祐天寺」参照)。
7月6日、将軍家定(嘉永6年「人物」参照)が薨去し、祐天寺に位牌が納められました。法号は温恭院殿贈正一位大相国公です。
10月3日、祐興は三尊御宝号が祐天上人の真筆である旨を「裏書」に認めました。
この三尊御宝号とは阿弥陀三尊(阿弥陀如来と観世音・勢至菩薩のこと)を祀ったものです。名号が阿弥陀如来を表しています。
冬、岸田(奈良県天理市岸田町)に祐天名号を刻んだ災害供養碑が建立されました。
安政元年(1854)6月14日に畿内、11月4日に東南海、および同2年(1855)10月2日に関東にと、2年の間に3度も大きな地震があり、家屋が壊れ、数万人の命が失われました。さらに、安政5年秋には全国各地で疫病が蔓延し、日に数万人が死亡しました。これらの死者を供養するため地蔵菩薩像を造って岸田官道(伊勢街道)沿いに建て、さらにその像の脇にこの祐天名号付き災害供養碑を建てたことが、碑文からわかります。
8月4日に鎌倉光明寺(神奈川県鎌倉市)93世浄厳が台命により知恩院72世となり、12月3日に大僧正に任じられました。
浄厳は万延元年(1860)12月に尊秀法親王の戒師となりました。翌年1月には法然上人650回御忌を修する際に、孝明天皇より法然上人に「慈教大師」の号が新たに下されたときの勅会を執り行いましたが、同年4月10日に遷化しました。
前年(1857)10月、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスは将軍家定への謁見を済ませると、次いで老中の堀田正睦と会談して、通商条約の必要性を説きました。正睦はハリスとの交渉に乗り出すことを決意し、下田奉行の井上清直と目付の岩瀬忠震を幕府側の交渉委員に任じます。ハリスとの交渉は前年12月12日からこの年の1月12日まで、15回にわたって行われました。
通商条約案が完成すると幕府は、勅許(天皇の許可)を得るため1月21日に正睦を上京させました。幕府は勅許を簡単に得られると思っていたのです。しかし、孝明天皇の強い反対に遭って勅許を得られなかったばかりか、これまで政治権力の外に置かれていた朝廷に政治への発言権を与えた結果となり、明らかに幕府の大失策でした。窮地に追い込まれた幕府は、井伊直弼(万延元年「人物」参照)を臨時職の大老に就任させ、事態の打開を図ります。直弼は諸大名に条約調印について意見を求めることで、諸大名の意志を開国に統一させ、改めて勅許を求めることにしました。
ところが、条約調印の延期に理解を示していたはずのハリスが突然、条約の即時調印を求めてきました。直弼は勅許を待つか、即時調印するかという厳しい選択を迫られました。そして、交渉に当たっていた清直らには勅許が得られるまでできる限り調印を延期するように指示しつつ、やむをえない場合は調印しても良いという内諾も与えたのです。
6月19日、14か条から成る「日米修好通商条約」は勅許を得られないまま、横浜小柴沖(横浜市金沢区)に停泊中のポーハタン号船上で調印されました。条約の主な内容は外交官の江戸駐在や、神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港と自由貿易の承認などです。しかし、日本側に関税自主権はなく、アメリカ側の領事裁判権や片務的最恵国待遇が成文化された不平等条約でした。こののち幕府は7月10日にオランダ、11日にロシア、18日にイギリス、9月3日にフランスとも同様の不平等条約を結ぶことになります。
外交問題が熾烈を極めていた6月25日、将軍継嗣問題に決着が着きました。幕府が紀州家の徳川慶福を継嗣とすることを正式に発表したのです。
13代将軍家定が病弱であったことから起きた継嗣問題は、血縁を重視する南紀派と、指導力を重視する一橋派が激しく対立し、幕府を二分する勢いを呈していました。井伊直弼ら譜代大名を中心とする南紀派が推していたのが慶福です。慶福は将軍家との血縁関係が近いことから大奥の支持も得ていました。一方の一橋派は、ペリー来航後の難局を乗り切るには前水戸藩(茨城県)9代藩主徳川斉昭(天保元年「人物」参照)の子で、一橋家を相続した英明の誉れ高い徳川慶喜(慶応2年「人物」参照)こそがふさわしいとして支持していました。しかも、越前藩(福井県)の松平慶永、薩摩藩(鹿児島県)の島津斉彬(安政4年「人物」参照)、土佐藩の山内容堂(慶応3年「人物」参照)らは早くから朝廷に近付き、慶喜が次期将軍になるよう画策していたのです。しかし、家定の信任を得た直弼が大老に就任したことで、慶福の将軍位継承が4月にはほぼ決まっていたと言えるでしょう。
いよいよ継嗣が公表されるという前日、一橋派の斉昭らは登城日でもないのに登城し、慶福を継嗣にしないよう直弼に詰め寄りました。たとえ御三家とは言え、定められた登城日以外に登城することは禁止されています。そこで直弼は斉昭らの行動を逆手にとって、不時登城の罪で彼らを謹慎などに処しました。これに対し、慶喜を次期将軍にと準備を整えつつあった朝廷にしてみれば、直弼の行為は専断に映り、直弼の政治に不満を募らせて態度を硬化させていきます。
しかし、両派の争うさなかの7月6日に家定が薨去し、結局は13歳の慶福が家茂(「人物」参照)と名を改め14代将軍となりました。
井伊直弼は石州流の茶人としても有名でした。『茶湯一会集』は直弼の茶の湯に関する集大成とも言うべき書で、井伊家の家臣である大久保家に伝わる写本の奥書から、安政4年(1857)8月までには書き終え、この年に刊行されたと考えられています。
序文で直弼が「此の書は、茶の湯一会之始終、主客の心得を委敷あらはす也」と述べているように、茶席における主人と客人双方の心得や作法がまとめられています。「茶湯約束之事」から始まり、衣服や懐中物、出迎えや見送りなど22項目から成りますが、その根底には「一期一会」と「独座観念」の精神が流れています。直弼は、「主人も客人も今日の茶会はその日限りの一期一会の茶会と心得、客人を見送ったあとに自分と向き合う独座観念こそが一会の極意」と位置付けました。一期一会の精神は安土桃山時代から脈々と受け継がれ、また独座観念も直弼独自の思想ではありませんが、一期一会と独座観念を結び付け、茶道の基本理念とした功績が高く評価されています。
徳川家茂は紀州藩(和歌山県)11代藩主徳川斉順(11代将軍家斉の7男)の長男として江戸赤坂の藩邸で生まれ、幼名を菊千代と言いました。紀州家にとって待望の嫡子誕生でしたが、家茂が生まれる16日前に父斉順が病没したため、家督は叔父の斉彊が相続していました。しかし、斉彊もまた病に倒れたことから、家茂はわずか4歳で13代藩主となります。6歳で元服し、伯父にあたる12代将軍家慶より1字をたまわって名を慶福と改めたのは嘉永4年(1851)のことでした。
幼少時の家茂には、背が高くやせていた家臣を「青鷺」と呼ぶほど鳥好きだったという話や、数百人の家臣たちが平伏している姿を見て「おやおや、うじゃうじゃとメダカのようじゃ」と言った話、柔術のけいこ中に家茂の手を誤って踏んでしまった家臣をかばうため痛みに涙を落としながらも平静を装ったという話などが残されています。家茂の無邪気さや素直さ、仁徳をうかがい知ることができるエピソードと言えるでしょう。家茂は「天資英明」と家臣から慕われ、家中一統が藩主としての成長を心待ちにしていました。しかし、この年に将軍継嗣問題(「事件・風俗」参照)が決着し、13歳の慶福は家茂と名を改めて14代将軍となります。
幼いながらも家茂の評判は高く、幕府内では名君であった8代将軍吉宗の再来ではないかと噂されるほどでしたが、13歳で政治をつかさどることはやはり難しかったため、幕政は家茂が絶大の信頼を寄せる井伊直弼(万延元年「人物」参照)に委ねられました。その直弼が桜田門外の変(万延元年「事件・風俗」参照)で暗殺された際の家茂は、食事も喉を通らず、家臣たちが心配するほどの落ち込みようであったと言われます。
しかし、悲しみに暮れてばかりはいられず、公武合体によって幕府の権力を回復させるため、17歳の家茂は文久元年(1861)に皇女和宮(文久元年「人物」参照)を御台所として迎えました。幕府の命運をかけた政略結婚ではありましたが、家茂は実際に仲の良い夫婦になることを望み、和宮に対して誠実な愛情を持って接したと言われています。2人とも父親の顔を知らないなど、その境遇に共感するところがあったのでしょう。家茂が和宮から和歌の手ほどきを受けていたことや、和宮に鼈甲の簪を贈ったこと、また家茂が上洛中に留守を預けた和宮との間でたびたび互いを思いやる手紙が交わされていたことなどがわかっています。和宮の兄の孝明天皇も家茂を大変気に入っていたようですが、幸せは長くは続きませんでした。
家茂は「日米修好通商条約」(「事件・風俗」参照)を巡る勅許の問題に悩まされ続けたうえ、慶応元年(1865)には外交問題に不備があったとして朝廷が老中を処分する事件が起きます。老中の任免権という将軍の職権を朝廷に侵され、家茂は政治への意欲を失っていきました。そうしている間にも時局は刻々と変化し、家茂は第2次長州征伐(慶応2年「事件・風俗」参照)の指揮を執るために入った大坂城で病に倒れます。その知らせはすぐに和宮に伝えられ、和宮は病気平癒の祈願のため黒本尊にお百度を踏み、心願として塩断ちもしたそうです。しかし、そのかいもなく慶応2年7月20日、家茂は脚気(慶応2年「解説」参照)による急性心不全にて薨去しました。21歳でした。