明顕山 祐天寺

年表

安政04年(1857年)

祐天上人

絵像、譲渡

4月28日、本所北番場町(墨田区)の七三郎が、茗荷屋分家の次兵衛へ祐天上人絵像を譲りました。この絵像は現在、新湊大楽寺(富山県射水市)に所蔵されています(文化13年「祐天寺」参照)。

参考文献
祐天上人絵像譲り状(大楽寺)

智願院、逝去

4月10日、尾張藩(愛知県)10代藩主徳川斉朝の御簾中である清湛院(11代将軍家斉の息女、淑姫)附きの智願院が逝去し、祐天寺に位牌と法号が納められました。法号は智願院殿深蓮社荘誉心阿宝利教厳法尼です。『本堂過去霊名簿』には「清湛院殿祠五十両之内にて供養」と書かれています。

参考文献
『徳川諸家系譜』1、『本堂過去霊名簿』

『蓮門六時勤行式』制定

5月、『蓮門六時勤行式』が増上寺学頭の観随(順良の弟子)によって制定されました。これは現行の「日常勤行式」の起点に立つものです。

観随によると六時勤行式とは「誦経・礼讃・念仏を勤修すること」であり、浄土宗の法式として長く宗徒により行われてきました。しかし、それまで統一された法式はなく、勤行時間が長かったり短かったり、その時々で定まっていませんでした。これを憂いた観随が十八檀林の学識経験者と図り、古今の勤行を取り入れて新たに制定したのが、この『蓮門六時勤行式』です。

参考文献
「『蓮門六時勤行式』の制定と展開」(大谷旭雄、浄土宗総合研究所研究成果報告書2『浄土宗日常勤行式の総合的研究』、浄土宗総合研究所編集・発行、1999年)

忠挙、逝去

7月25日、壬生藩(栃木県)14代藩主鳥居忠挙が42歳で逝去しました。法号は誠徳院殿慈運雄光大居士です。

祐天寺にはその正室の誠心院殿慈徳貞光大姉と合祀された忠挙の位牌が納められています。その位牌の施主でもある誠心院は、浜田藩(島根県)13代藩主松平康任の息女で、名を聡子と言い、明治19年(1886)8月に亡くなりました。

鳥居家と祐天寺の関係は、12代藩主忠燾の正室の浄光院(天保10年「祐天寺」参照)から始まったものと考えられます。浄光院の信仰は嫁となった誠心院へと受け継がれ、忠挙の嫡子の忠粛らの法号も納められています。

参考文献
鳥居忠挙・誠心院合祀位牌、『本堂過去霊名簿』、『壬生町史』資料編近世(壬生町史編さん委員会編、壬生町、1986年)

五番組石碑、建立

11月15日、江戸町火消五番組石碑が祐天寺に建てられました。施主は江戸町火消五番組です。

石碑の正面には祐天上人名号が、裏面には祐興の名号と、建立に協力した五番組のく組・や組・ま組・け組・ふ組・こ組・え組・し組・ゑ組の人々の名が彫られています。

参考文献
江戸町火消五番組石碑

寺院

アメリカ使者の旅舎

10月7日、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスが江戸に入府するに伴い、「増上寺の末寺数か寺をアメリカ使者の旅舎にあてるように」と、寺社奉行の松平輝聴より増上寺へ通達がありました。増上寺役者により西久保大養寺(港区)、麹町栖岸院(千代田区)、牛込法正寺(新宿区)、小石川西岸寺(文京区)、浅草源空寺(台東区)が旅舎に指定されました。

参考文献
『浄土宗大年表』

風俗

箱館産物会所の設置

「日米和親条約」(安政元年「事件・風俗」参照)締結により箱館(北海道函館市)開港が決定すると、幕府は松前藩(北海道)の領地であった蝦夷地を直轄地としてその支配に乗り出します。このときに政策の一環として設置されたのが箱館産物会所です。この年にまず箱館と江戸に、翌年3月には大坂に建てられ、そして兵庫には出張会所が設けられました。その役割は蝦夷地産物の流通統制と密貿易の監視などです。会所で売りさばかれる荷の価格の0.02~0.03パーセントを上納させるほか、蝦夷地産物の紹介や販売も行いました。
 
会所で得られた収益は蝦夷地開発に掛かる膨大な諸経費にあてる予定でしたが、以前から産物を取り扱っていた仲買や問屋では利益が激減したことから、会所を通さずに取り引きされる商品が多くなっていき、流通の統制どころか会所の経営すらも難しかったようです。


釜石で製鉄に成功

12月、南部藩閉伊郡甲子村大橋(岩手県釜石市)に建設された洋式高炉で、鉄鉱石から鉄を精錬することに成功しました。日本古来のたたら製法により砂鉄から精製した鉄で作られた大砲や鉄砲はもろく、試験時に壊れてしまうものが多かったため、軍備増強を目指す諸藩にとって銑鉄は必要不可欠だったのです。

銑鉄の精錬を実現した高炉は、外壁を花崗岩で組み、高さ2丈(約6メートル)、長さ4間(約7.3メートル)、幅3間(約5.5メートル)ほどの大きさで、動力には水車を使用していました。操業初期の1日の銑鉄生産量は200~250貫(約750~930キログラム)だったと言います。やがて立て続けに橋野(同県同市)に3座、佐比内(同県遠野市)に2座の高炉が建設され、幕末には南部藩内に合わせて10座の高炉が建てられました。年間の生産量は10座で60万貫(約2、480トン)以上にものぼったそうです。

高炉の建設者である南部藩士大島高任は高島砲術を皆伝し、家業である医学のほか兵法、冶金、採鉱などの学問を修めた博覧強記な人物です。高炉の建設は、高任がその建設に携わった水戸藩(茨城県)の反射炉に、銑鉄を供給することが目的でした。そのため高炉の運営は、南部藩ではなく地元の豪商からの出資で賄われていましたが、やがて水戸藩で反射炉が閉鎖されてしまうと銑鉄の消費に苦慮することになります。慶応3年(1867)からは鋳銭事業に使用されたものの、明治2年(1869)にはほとんどの高炉が休止、または廃止となりました。

参考文献
『新北海道史』第2巻通説1(北海道編集・発行、1970年)、『函館市史』通説編2(函館市総務部市史編さん室編、函館市、1990年)、「幕府の蝦夷地政策と箱館産物会所」(守屋嘉美、『幕末維新期の研究』、石井孝編、吉川弘文館、1978年)、『日本鉄鋼技術史』(下川義男、アグネ、1989年)、『幕末明治製鉄史』(大橋周治、アグネ、1975年)

芸能

『三世相錦繍文章』初演

7月、中村座で3世桜田治助作の歌舞伎『三世相錦繍文章』が初演されました。実際に起きた3つの事件をもとに浅田一鳥が書いた、『八重霞浪花浜荻』という浄瑠璃から材料を得ています。

4幕すべてを遊女お園の見た夢の話とし、地獄巡りの場面があることや、全体を常磐津の出語りにしたことが変わっている点です。

お園は、紛失した主家の宝物である小倉の色紙を六三郎に得させるため、悪者の兄の長庵を殺しました。その後、お園は抱え主の福清夫婦の情けで六三郎と駆け落ちし、須崎堤(墨田区)で心中します。亡者となった2人は地獄へ堕ちて裁かれますが、実は長庵はお園の兄ではなく、母を殺した敵であったと判明します。ここまでがお園の見た夢で、三社祭の場で六三郎は念願の色紙を手に入れ、主家へ帰参の目途が付くという内容です。

参考文献
『日本戯曲全集』21(渥美清太郎編纂、春陽堂、1929年)、「三世相錦繍文章」(戸板康二、『名作歌舞伎全集』15、東京創元新社、1969年)、『歌舞伎事典』

人物

島津斉彬 文化6年(1809)~安政5年(1858)

幕末の名君として名高い島津斉彬は、江戸の薩摩藩藩邸にて生まれました。父は10代藩主斉興、母は鳥取藩(鳥取県)7代藩主池田斉邦の息女の周子です。周子は嫁入り道具として多数の本箱を携えてくるほど、学問好きな女性だったと伝えられています。通常では乳母に任せる授乳やおむつの取り替えまで自ら行い、さらに幼少の頃から漢籍の素読を授けて、島津家の家督を継ぐべき斉彬を厳しくしつけました。聡明な斉彬を曾祖父の重豪(安永2年「人物」参照)も大変かわいがり、隠居屋敷に連れてきては英雄義士の話などを聞かせていたと言います。賢い母と「蘭癖大名」と呼ばれた曾祖父とから多大な影響を受けた斉彬は、「学問のない人が政治をなすのは適当ではない」と蘭学を志すようになり、蘭学者に翻訳させた蘭書から外国のさまざまな知識を吸収していきました。そして、老中阿部正弘(弘化4年「人物」参照)や水戸藩9代藩主徳川斉昭(天保元年「人物」参照)、土佐藩(高知県)15代藩主山内容堂(慶応3年「人物」参照)といった大大名らとも蘭書の貸し借りを通じて親交を結び、やがて斉彬の英明さは「老中として天下の国政を執らせてみたい」と言われるほど、幕閣や諸大名の間で評判となったそうです。

弘化3年(1846)、アメリカ・イギリス・フランスが琉球(沖縄県)に対して開国を要求した問題について、斉彬は幕府から処理を任されました。しかし、帰国した斉彬は図らずも、国許で自分の家督相続を阻む動きがあることを知ります。斉興の側室お由羅が息子の久光を世子にする陰謀を企てているというものですが、この陰謀の背景には家老の調所広郷(嘉永元年「人物」参照)がいました。斉彬の曾祖父譲りの蘭癖により再び藩財政が危うくなることを、広郷は恐れていたとも言われています。俗に「お由羅騒動」(別名、高崎崩れ)と呼ばれるこのお家騒動では、斉彬擁立派の藩士高崎五郎右衛門らが久光の暗殺を企てたことが発覚し、50余人が鋸引きや磔、切腹、遠島などの処罰を受けました。しかし、この事件が斉彬の藩主就任に響くことを恐れた擁立派藩士の働きにより、斉興は強引に隠居させられ、ようやく斉彬は11代藩主となったのです。斉彬43歳のときでした。

藩主の座に就いた斉彬は、さっそくさまざまな事業に着手します。大型船や反射炉、砲台の建設などにより軍事力の強化を図り、また集成館と名付けられた工場群では火薬や硝酸、薩摩切子などを製造させました。併せて斉彬は自らもガス灯や電信機、写真術などの研究を行い、写真機で藩邸などを撮影していたそうです。

安政3年(1856)、以前から将軍家より申し込まれていた縁談を受けて、斉彬は養女の篤姫(安政3年「人物」参照)を13代将軍家定に入輿させました。これにより幕府への発言権を強め、父斉興が長年願い続けてきた従三位への昇進を果たすことができたものの、将軍継嗣を巡る問題においては、斉彬が擁立する徳川慶喜(慶応2年「人物」参照)を14代将軍とすることを阻まれました。 その後、「日米修好通商条約」(安政5年「事件・風俗」参照)締結のため朝幕間の関係が悪化した際、斉彬は朝廷守護のために軍を率いて上京しようとしたとも言われています。しかし、鹿児島城下で兵の調練を検閲後、突然の病により逝去。享年は50歳でした。

参考文献
『島津斉彬のすべて』(村野守治、新人物往来社、1989年)、『島津斉彬』(人物叢書、芳即正、吉川弘文館、1993年)
TOP