4月28日、本所北番場町(墨田区)の七三郎が、茗荷屋分家の次兵衛へ祐天上人絵像を譲りました。この絵像は現在、新湊大楽寺(富山県射水市)に所蔵されています(文化13年「祐天寺」参照)。
4月10日、尾張藩(愛知県)10代藩主徳川斉朝の御簾中である清湛院(11代将軍家斉の息女、淑姫)附きの智願院が逝去し、祐天寺に位牌と法号が納められました。法号は智願院殿深蓮社荘誉心阿宝利教厳法尼です。
『本堂過去霊名簿』には「清湛院殿祠五十両之内にて供養」と書かれています。
5月、『蓮門六時勤行式』が増上寺学頭の観随(順良の弟子)によって制定されました。これは現行の「日常勤行式」の起点に立つものです。
観随によると六時勤行式とは「誦経・礼讃・念仏を勤修すること」であり、浄土宗の法式として長く宗徒により行われてきました。しかし、それまで統一された法式はなく、勤行時間が長かったり短かったり、その時々で定まっていませんでした。これを憂いた観随が十八檀林の学識経験者と図り、古今の勤行を取り入れて新たに制定したのが、この『蓮門六時勤行式』です。
7月25日、壬生藩(栃木県)14代藩主鳥居忠挙が42歳で逝去しました。
法号は誠徳院殿慈運雄光大居士です。
祐天寺にはその正室の誠心院殿慈徳貞光大姉と合祀された忠挙の位牌が納められています。その位牌の施主でもある誠心院は、浜田藩(島根県)13代藩主松平康任の息女で、名を聡子と言い、明治19年(1886)8月に亡くなりました。
鳥居家と祐天寺の関係は、12代藩主忠燾の正室の浄光院(天保10年「祐天寺」参照)から始まったものと考えられます。浄光院の信仰は嫁となった誠心院へと受け継がれ、忠挙の嫡子の忠粛らの法号も納められています。
11月15日、江戸町火消五番組石碑が祐天寺に建てられました。施主は江戸町火消五番組です。
石碑の正面には祐天上人名号が、裏面には祐興の名号と、建立に協力した五番組のく組・や組・ま組・け組・ふ組・こ組・え組・し組・ゑ組の人々の名が彫られています。