明顕山 祐天寺

年表

安政03年(1856年)

祐天上人

頼以、逝去

2月12日、高遠藩(長野県)10代藩主内藤頼以が逝去し、法号と祠堂金3両が祐天寺に納められました。法号は感徳院殿薫誉梅香静翁大居士です。のちに頼以子息の頼寧(文久2年「祐天寺」参照)と合祀された位牌も納められました。

頼以は福島藩(福島県)10代藩主板倉勝矩の5男として生まれましたが、寛政3年(1791)に高遠藩9代藩主長好の養子となり、その遺領を継ぎました。

参考文献
内藤頼以位牌、『本堂過去霊名簿』、『寛政重修諸家譜』、『三百藩藩主人名事典』

成田山に絵馬、奉納

3月、成田山新勝寺(千葉県成田市)に祐天上人の絵馬が奉納されました。成田山が深川永代寺(江東区)で行った出開帳の折に信者によって奉納されたものです。この絵馬は歌川国芳の画で、『祐天上人一代記』などにある説話を題材としています。

参考文献
「祐天上人御利生の図」(『なりた』40号、1987年8月・『なりた』50号、1991年1月、成田山霊光館)、『祐天上人一代記』

『狂歌江都名所図会』

5月、『狂歌江都名所図会』が刊行されました。天明老人内匠の編集によります。第13編に祐天寺についての狂歌が、いく首か載せられています。

絹川に 夜な〱ともす青き火を
   しめしたまひし 祐天和尚
          哥舞台百鳴
祐天寺 あけの紅葉の衣手は
  夢になりたの 霊宝にこそ 
          南風亭哥成

参考文献
『狂歌江都名所図会』(江戸狂歌本選集刊行会、東京堂出版、2004年)

梵行寺に名号石塔、建立

7月18日、山形梵行寺(山形県山形市)に祐天上人名号石塔が建立されました。施主の斉藤文吉は近江商人だったと伝えられ、本堂再建の記念と斉藤家先祖代々供養のために建立されたものと考えられます。

梵行寺は弘化元年(1844)頃火災に遭い、本堂および庫裏を焼失しました。同3年(1846)に庫裏が、続いて本堂が再建され、文吉はその際に尽力したと伝えられています。

参考文献
祐天上人名号石塔(梵行寺)

線宮、逝去

11月19日、水戸藩(茨城県)10代藩主徳川慶篤の御簾中の線宮(有栖川宮幟仁親王の息女)が逝去し、祐天寺に法号が納められました。法号は線教院殿厳誉妙華員貫大姉です。線宮の葬儀では、当時瓜連常福寺(茨城県那珂市)住職であった学天(文久元年「寺院」参照)が、水戸藩から特に望まれて導師を勤めました。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『学天大僧正道蹟』(岩崎徹治郎著・発行、1919年)

寺院

築地本願寺、倒潰

8月25日、江戸は近年まれに見る大風雨に見舞われました。築地本願寺(中央区)には前年の大地震(安政2年「事件・風俗」参照)に懲りた信者たちが、本堂に避難していました。風雨が激しくなってきたので、寺の者と信者が本尊を厨子から出し、対面所に遷した直後に本堂がつぶれました。しかし、幸いにもけが人は1人も出ませんでした。

後日、数え切れないほどの人数の老若男女が、つぶれた本堂の瓦下ろしを手伝いました。また、本堂再建を願う信者からの冥加料もかなりの金額が集まったようです。本堂が再建されるのは4年後の万延元年(1860)です。

参考文献
『実録・大江戸壊滅の日』(荒川秀俊、教育社、1982年)、『武江年表』

風俗

松陰、講義を行う

密航未遂事件により投獄された吉田松陰(安政元年「人物」参照)は許されて生家の杉家に戻りました。そのため、松陰が獄中で行っていた『孟子』の講義は中止されますが、それを惜しんだ松陰の父が、親戚の者を集めてこの年から講義を再開させました。翌年の安政4年(1857)には、実家の屋敷内にあった小屋を改造し、松下村塾の名のもとに門弟を集めます。松陰の門下からは伊藤博文、久坂玄瑞、高杉晋作、山県有朋、品川弥二郎といった、幕末から明治に掛けて活躍する人材が輩出されました。

松陰の教育は徹底した平等主義を貫き、身分、年齢、性別などいっさいを問わず1人ひとりを生かすものでした。松下村塾では時間割の類はなく、勉強したい塾生が来れば授業が始められ、議論が熱を帯びると明け方まで続けられることもざらにありました。また、決められた教科書もなく、どのようなテキストを選ぶかは塾生によって異なっていました。教授のスタイルは書物の解釈に終始することなく、そこに登場する事実や教訓を日常生活に関連させながら自らの思想信条を展開していくというものでした。授業は教室の外でも行われ、農作業をしながらの講義や、剣術、水泳などの講習も行われていました。

安政5年(1858)の「日米修好通商条約」調印を契機として、松陰と塾生の政治行動が活発化します。それはしだいに激化の一途をたどり、松陰は老中間部詮勝暗殺計画を企てたことから、長州藩(山口県)により再び野山獄につながれることになります。しかし、松陰の獄中からの政治的画策は以前にも増して過激になっていき、松陰に付いていけない塾生が増えていきました。

塾自体は松陰投獄後も門下生たちの手で維持されていました。一時は廃絶状態となりますが再興され、明治元年(1868)には長州藩より塾舎修補の費用も与えられました。これは明治維新の功労者を輩出した松下村塾を特別扱いしたものと言えます。


ハリスの駐在

7月21日、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスが下田(静岡県下田市)に入港し、8月5日には宿泊所に定められた下田玉泉寺に星条旗を掲げました。総領事の派遣は「日米和親条約」(安政元年「事件・風俗」参照)に基づくものです。

ハリスは日本との通商条約締結をもくろんでいましたが、幕府はハリスとの交渉に逃げ腰となり、なかなか進展しませんでした。ハリスの孤独な闘いは1年以上に及び、日常生活に必要な物資の購入もままならないありさまだったそうです。

しかし、ハリスの粘り強い交渉の結果、安政4年(1857)5月26日には日米和親条約の不備を補う、「下田条約」が締結されました。この条約は「外国人の居住権」「金貨銀貨の等価交換」「領事裁判権」などを取り決めたもので、日本には不利な内容でした。

10月21日にハリスは念願だった将軍家定への謁見も許され、「日米修好通商条約」(安政5年「事件・風俗」参照)締結へと交渉が進むことになります。

参考文献
『吉田松陰と松下村塾』(海原徹、ミネルヴァ書房、1990年)、『幕末デキゴトロジー』(桐山光弘、鳥影社、2000年)、『読める年表』(川崎庸一ほか監、自由国民社、1991年)、『国史大辞典』、『日本全史』

芸能

『蔦紅葉宇津谷峠』初演

9月に市村座で、河竹黙阿弥作の歌舞伎『蔦紅葉宇津谷峠』が初演されました。盲目の少年按摩文弥は、座頭の官位を取るために100両の金を持って京都に向かいます。鞠子宿(静岡市駿河区)で盗人の提婆の仁三にねらわれますが、同宿の十兵衛に助けられました。しかし、十兵衛が「主君のために金が入用なので、その金を貸してくれ」と言い出し、文弥を惨殺して金を奪います。十兵衛は帰宅後、殺しの現場を目撃した仁三にゆすられたため彼をも殺害し、自らも切腹して果てました。

この演目の見どころは、文弥と仁三という全く異なる2役の早替わり、紅葉に彩られた峠の殺し場、十兵衛への亡霊出現の場、仁三のゆすりの場などです。名人と言われた4代目市川小団次と黙阿弥という、幕末の歌舞伎を代表する役者と作家の名コンビが、この作品によって確立されました。

参考文献
『日本国語大辞典』(日本国語大辞典第2版編集委員会、小学館、2001年)、『歌舞伎事典』

人物

天璋院 天保6年(1835)~明治16年(1883)

天璋院は薩摩藩(鹿児島県)藩主島津家一門で今和泉(同県指宿市)領主の島津忠剛の長女として鹿児島で生まれ、名を一子と言いました。嘉永3年(1850)、のちに13代将軍となる家定との縁組みの話が11代藩主島津斉彬(安政4年「人物」参照)のもとに持ち込まれますが、斉彬には年頃の娘がいなかったため、天璋院に白羽の矢が立ちます。天璋院は斉彬の養女となって名を篤姫と改め、嘉永6年(1853)に江戸へ向かいました。徳川家から特に望まれた縁組みでしたが、ペリー来航や12代将軍家慶の薨去、安政の大地震などにより準備が進まず、ようやく婚約が整い、近衛忠煕の養女として名を敬子と改め、御台所となったのは安政3年(1856)12月18日のことです。天璋院は22歳になっていました。

その後もアメリカ総領事ハリスとの交渉など、幕府の抱える外交問題は難局を迎えていました。そればかりか病弱な家定には将軍継嗣問題まで持ち上がっていたのです。入輿前夜、斉彬はこうした事情を天璋院に説明し、一橋家の徳川慶喜(慶応2年「人物」参照)を次期将軍に推すよう言い含めていました。しかし、この継嗣問題は家定生母の本寿院をはじめとする大奥女中たちの猛反対に遭い、天璋院は婚家と実家との板挟みになって苦しみます。結局、聡明な天璋院をもってしても斉彬の意向に沿う形で継嗣問題を解決させることはできず、紀州家の徳川慶福が継嗣と決まりました。とは言うものの、斉彬にとって継嗣問題は当初からの目的ではなく、また天璋院と家定の夫婦仲が良く世継ぎ誕生の可能性もあると知ると、2人の仲を壊してまで大奥工作を進めようとはしなかったようです。しかし、安政5年(1858)に家定が薨去したため、結婚生活は1年半余りという短いものでした。さらに家定薨去の10日後には斉彬が急死し、わずかな期間に後ろ盾を失った天璋院は「ひとたび嫁しては徳川の人間」という覚悟のもと、激動の人生を歩むことになります。

落飾してからは幼い14代将軍家茂を支え、大奥の防火システムを確立するなど、多事多難な時代にあってよく大奥をまとめました。時には老中に直接意見して「女性のようではいらっしゃらん」と驚かれるほど気丈夫なところも見せましたが、その反面ネコをわが子のように溺愛していた微笑ましいエピソードも伝えられています。

文久元年(1861)2月、皇女和宮(文久元年「人物」参照)が降嫁すると天璋院との不和が取りざたされますが、家茂上洛の際には和宮とともにお百度参りをするなど互いを支え合うようになります。家茂の死後、倒幕軍による江戸総攻撃に先立って、薩摩藩が天璋院救出の使者を江戸城に送り込んだときにも天璋院は自害も辞さない勢いでそれを固辞し、脅える大奥女中たちを勇気付けて大御台所としての責任を見事に果たしました。その後も自ら官軍参謀の西郷隆盛を説得し、朝廷への執り成しを和宮に頼むなど、徳川家存続のため奔走します。

一橋邸に退いた天璋院は300人近い大奥女中たちの再就職に心を配ったのち、徳川家を相続した家達(田安亀之助。明治元年「解説」参照)の養育に専念しました。財政状況の厳しさから、天璋院も手元の道具類を売り払っての生活でしたが、島津家から申し入れられる再三の援助はいっさい受け入れなかったそうです。明治10年(1877)、15歳になった家達がイギリス留学に旅立つと、やっと天璋院にも平穏な生活が訪れました。香や能を楽しみ、箱根や熱海に生まれて初めての私的旅行にも出掛けています。家達が帰国した翌年の明治16年11月20日、49歳で急逝し、上野寛永寺(台東区)に眠る家定の墓所に埋葬されました。

参考文献
『天璋院篤姫展』(NHKプロモーション編集・発行、2008年)、『天璋院』(黎明館企画特別展、松平乘昌監、鹿児島県歴史資料センター黎明館、1995年)、『旧事諮問録』(東京帝国大学史談会編、青蛙房、1964年)、『三田村鳶魚全集』3(三田村鳶魚、中央公論社、1976年)
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