明顕山 祐天寺

年表

安政2年(1855年)

祐天寺

照光寺に名号石碑、建立

1月16日、山屋村(岩手県紫波郡)の照光寺に祐天上人名号と観世音とが刻まれた石碑が建立されました。石碑の正面には、世話人と思われる成松や平治など講中11人の名前も刻まれています。

照光寺は坂上田村麻呂が人々の安穏と五穀豊穣を祈願して建立し、自らの兜の中に納められていた十一面観音を本尊としたことに始まります。早くから山の神である大山祇神とともに祀っていましたが、明治元年(1868)に「神仏分離令」が布告されて廃仏毀釈の気運が高まると、十一面観音は同4年(1871)に山谷寺へ遷され、照光寺は山祇神社と改められました。

参考文献
祐天上人名号石碑(山祇神社)、『岩手の石碑』(臼澤正充、臼澤信行編集・発行、2004年)、『紫波郡誌』(岩手県教育会紫波郡部会編、名著出版、1974年)

『成田山御利生記』

新春、成田不動の霊験を伝える草双紙『成田山御利生記』が刊行されました。作者は仮名垣魯文です。上下巻から成り、下巻に祐天上人の生涯が記されています。その内容は、祐善(祐天上人のことを表すと思われる)が成田不動の利剣を呑んで知恵を授かり高僧となったのち、菊という娘に取り憑いた累の霊を済度するというものです。

参考文献
「成田山御利生記」(小池康久、『なりた』40号、成田山霊光館、1987年)

本尊・宮殿、修補

祐興は本尊祐天上人坐像の宮殿の修補を3月より行い、8月初旬に完了しました。この修補に際し、大工棟梁を斉藤伊助が務めたのをはじめ、屋根の金具修補を角屋與兵衛、彩色を宮田亀治郎がそれぞれ行いました。棟札には役僧の真巖(のちの祐天寺14世祐真)、納所の祐巖の名も見られます。また、宮殿のほかに大殿と位牌堂の修補を行ったことも記されています。

さらに8月、祐興は本尊の修補も終え、祐天・祐海・順良・真海諸上人の名を木札に認めて、その胎内に納めました。

参考文献
祐天上人坐像宮殿棟札、祐天上人坐像胎内木札

極楽寺の後藤家墓に追刻

4月1日、山形極楽寺(山形県山形市)の後藤家墓に、戒名が追刻されました。墓の右側面には「結屋清八墓」と刻まれており、その屋号から後藤家が当地の旅籠(旅館)であったことがわかります。

また正面には、増上寺59世顕了(60世再住)が祐天上人の筆跡を模した名号が彫られています。顕了は、『祐天大僧正利益記』(文化5年「出版・芸能」参照)の序文を撰した在禅(文化5年「寺院」参照)の弟子であったことから、祐天名号を揮毫したと考えられます。

参考文献
後藤家墓(極楽寺)、「旅籠町絵図」(『図説 山形の歴史と文化』、山形市教育委員会編集・発行、2004年)、『本堂過去霊名簿』

五番組位牌、奉納

4月、江戸町火消五番組中の位牌が納められました。この位牌には祐興の名号と花押があり、く組・や組・ま組・け組・ふ組・こ組・え組・し組・ゑ組と書かれています。

参考文献
江戸町火消五番組位牌

白子組、参詣

7月22日、白子組(文政4年「祐天寺」参照)が施餓鬼法要のため祐天寺に参詣しました。法要では白子組の関係者の位牌を施餓鬼棚に供えて精霊の供養を行いました。『本堂過去霊名簿』には、白子組物故者の法要がこの年まで営まれていたことが記されています。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

俊民、逝去

9月29日、生実藩(千葉県)9代藩主森川俊民が逝去し、祐天寺に法号が納められました。法号は雄月院殿前朝散大夫徳山含章大居士です。 俊民は島原藩(長崎県)13代藩主松平忠馮の実子でしたが、生実藩8代藩主俊知の婿養子となって跡を継ぎました。

俊民より先に、高島藩(長野県)9代藩主諏訪忠粛の実子の俊一が婿養子となっていましたが、俊一は家督を継ぐ前に逝去します。祐天寺には俊民と俊一(天亮院殿眞元道如大居士)が合祀された位牌が納められています。

参考文献
森川俊民・俊一合祀位牌、『本堂過去霊名簿』、『千葉市史』史料編(千葉市史編纂委員会編、千葉市、1980年)

願生院、逝去

11月13日、11代将軍家斉の表使であった願生院が逝去し、祐天寺に葬られました。法号は願生院専誉称仏法尼です。願生院は名を岩野と言い、家斉薨去ののちはその菩提を弔っていたものと思われます。

表使は大名家の奥向きや表(男性)役人との交渉、大奥で使用する物品の購入・管理が主な仕事でした。願生院はこのような役職に就いていたので、祐天寺にも使いとして来寺していたと考えられます。

参考文献
『本堂過去霊名簿』
TOP