明顕山 祐天寺

年表

安政元年(1854年)

祐天上人

阿弥陀堂、修復

8月26日、阿弥陀堂の修復が行われました。棟札には役僧の真巖(のちの祐天寺14世祐真)、納所の祐巖、大工の斉藤伊助(嘉永3年「祐天寺」参照)の名が書かれています。

参考文献
阿弥陀堂棟札

玉峯院、逝去

10月22日、久留米藩(福岡県)11代藩主有馬頼咸と正室精姫(12代将軍家慶の養女。嘉永6年「祐天寺」参照)との間に生まれた男児が逝去し、祐天寺に葬られました。法号は玉峯院殿庭遊如幻孩子です。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『天正過去帳』

清光寺祐天堂、大破

11月4日に起きた安政南海地震により、松坂清光寺(三重県松阪市)の境内が大破し、祐天堂にも被害が及びました。『地震騒動大概』には、この地震の被害状況について「午前5時より大地震が起こり、松坂白子神戸山田辺りの家は潰れ、大破し、その付近の様子は記しがたいほどだ。死者は200人余りと言う」と記されています。被害は近畿地方から四国、九州東岸に至る広い地域に及び、マグニチュード8クラスの規模だったと推定されています。

清光寺では正徳3年(1713)に23世幡貞が、日課念仏の普及のため十万人講を組織しました。当時、増上寺36世であった祐天上人はこのことを知り、自らその十万人講に名を連ね、さらに直筆の名号を贈りました。清光寺ではこの名号を信者に印施し、講の人数は50万人に及んだと言われています。被害を受けた祐天堂はこの頃に建てられたもので、現在も堂内には祐天上人倚像が安置されています。

参考文献
祐天堂棟札(清光寺)、『地震騒動大概』(『新収日本地震史料』第5巻別巻5ノ1、東京大学地震研究所編集・発行、1987年)、『大地震の前兆』(グループE編、双葉社、1995年)、『清光寺お寺案内』

三界万霊塔、建立

11月、土佐藩(高知県)13代藩主山内豊熈の正室である智鏡院が、祐天寺に三界万霊塔を建立しました。塔には、嘉永6年(1853)夏に浦賀沖(神奈川県横須賀市)へ使船が来たこと(ペリー来航を指すと思われる)や、ロシア船の来航などの緊迫した情勢について記されており、土佐藩が海防の強化に努めたことがわかります。

現在この塔は破損が進み、刻文の判読は困難ですが、残存部分からは、智鏡院との縁が深く海防強化に功績のあった者の遺骨が納められ、誦経供養が行われたことが読み取れます。

参考文献
智鏡院建立の三界万霊塔

寺院

異国船調伏祈祷

アメリカ・ロシア船などの外国船の来航により、知恩院をはじめとした寺社へ異国船調伏の祈祷が仰せ付けられました。また、伏見稲荷大社(京都市伏見区)をはじめとする12社には祈祷料として銀20枚ずつが与えられました。そのほか30余社から異国船調伏祈祷の神札、巻数、御祓などが幕府へ献上されました。 こうした外国船の調伏祈祷はこの年に限らず、数年前から毎年数回行われていました。

参考文献
『論集 日本仏教史』10(平岡定海ほか編、雄山閣出版、1999年)、「幕末外国関係文書」(『大日本古文書』、東京帝国大学編、東京帝国大学文科大学史料編纂掛、1914年)、『浄土宗大年表』

風俗

「日米和親条約」締結

1月11日、前年の予告どおりアメリカ東インド艦隊司令長官マシュー・ペリー提督が来航しました。世界最大の蒸気軍艦3隻を含む全9隻に約2、000人の乗組員という大艦隊です。

幕府がペリーの再来航に向け準備してきた沿岸の防備は、いまだ不十分なままでした。そのため幕府はペリーとの交渉の時期を引き延ばそうとしますが受け入れられず、そればかりか江戸から離れた鎌倉(神奈川県鎌倉市)や久里浜(同県横須賀市)を応接地にしたいと伝えると、ペリーは祝砲と称する大砲を発射して、明らかに威嚇してきたのです。幕府はその露骨な軍事威圧に屈し、横浜(横浜市中区)を応接地にせざるをえませんでした。

2月10日、ペリーが横浜に上陸し、幕府応接掛の林大学頭らが交渉に当たりました。オランダ語を介しての交渉は複雑なものとなりましたが、ペリーがアメリカから持参した条約草案が漢文体で書かれていたため、時には幕府側がその文章の間違いを指摘するなど、したたかな一面を見せることもあったようです。

結局、交渉は約1か月に及び、ようやく3月3日に「日米和親条約」が締結されました。条約の内容はアメリカへの「下田・箱館2港の開港」「薪水や食料、石炭の供給」「船員と漂流民の保護」「総領事の駐在」「最恵国待遇」など12か条から成り、200年以上に及んだ鎖国はこの条約施行により終わるのです。


ペンキの始まり

横浜で日米交渉が行われることが決まると、幕府は応接所の準備に追われました。応接所は急遽4日ほどで造られましたが、見栄えが悪かったためか西洋式塗装であるペンキを用いることになります。江戸の渋塗職人の町田辰五郎が幕府から応接所の外壁をペンキ塗装するように命じられたのは1月16日のことでした。

ペンキを知らない辰五郎は試行錯誤の末、色胡粉で下塗りした上に荏油を塗って艶を出すことを考え付きます。しかし、それではペンキ塗装とは言えませんでした。そこで辰五郎は横浜村本牧(横浜市中区)に停泊していたバンダリア号に赴き、その船の乗組員からペンキを入手するとともに、塗装法を習います。そのかいあって2月6日には応接所のペンキ塗装が完了しました。

「日米和親条約」が無事に調印されると、辰五郎はペンキの取扱いを特別に一手に任され、外国公館の塗装を行う特権を与えられます。その後の辰五郎はペンキ塗装の仕事で全国を駆け巡るかたわら、ペンキ塗装職人の育成に力を注ぎました。

参考文献
『江戸の大変』地の巻(稲垣史生監、平凡社、1995年)、『歴史誕生』2(NHK歴史誕生取材班編、角川書店、1990年)、『事物起源辞典』衣食住編(朝倉治彦ほか編、東京堂出版、2001年)、『日本近代建築塗装史』(日本塗装工業会編、時事通信社、1999年)、『日本全史』

芸能

8代目団十郎、自殺

8月6日、大坂に滞在中だった8代目市川団十郎が、旅籠(旅館)植久で自殺しました。32歳でした。

8代目は10歳のときに団十郎を襲名し、その美貌とさわやかな声調によって江戸時代を通じての人気役者として劇界に君臨しました。『与話情浮名横櫛』『明烏』など、彼のために書き下ろされた演目も少なくありません。『助六』を演じたときなどは、団十郎が飛び込んだあとの天水桶の水が、徳利1杯を1分の値段で争って買い求められたそうです。

天保13年(1842)に父の5代目市川海老蔵(7代目市川団十郎。享和元年「人物」参照)が江戸から追放されると(嘉永2年「出版・芸能」参照)、遠くにいる父や、残された一門を支えるために苦心したことが認められ、北町奉行所から親孝行であるとして表彰されました。このときの「申し渡し」の文の内容から、団十郎の律儀で生真面目な生活態度がしのばれます。

素顔の団十郎は病的なほどの潔癖家で、自分の持ち物に他人が触るとすぐに捨ててしまったと伝えられています。また、不眠に悩んでおり、晩年はそれがひどくなって極度の神経衰弱に陥っていたとも伝えられています。

8代目団十郎の死に際し300余種もの死絵(役者などが没したときに描かれる浮世絵)と追悼の書が多数出版されますが、これは比類のないことで、彼の人気の高さが示されました。

参考文献
『市川団十郎』(金沢康隆、青蛙房、1962年)、『日本奇談逸話伝説大事典』(志村有弘ほか編、勉誠社、1994年)

人物

吉田松陰 天保元年(1830)~安政6年(1859)

アメリカへの密航を企てて失敗し、伝馬町の牢に入れられた者がいました。吉田松陰です。再来航したペリーの軍艦へ乗り込みましたが、目的は果たせませんでした。密航に失敗した松陰と同じく長州藩(山口県)藩士の金子重之助は自首し、伝馬町牢に入獄。松陰に対する判決は、父の杉百合之助への引渡し蟄居というもので、国禁を犯した割には軽い処分でした。

故郷の萩(同県萩市)へ戻った松陰は野山獄につながれますが、獄中で猛勉強を始めます。松陰はもともと、山鹿流兵法学師範であった叔父の吉田大助の死後、6歳にして長州藩の兵学師範となったほど優秀でした。さらに兵学と経学の習得のため、非常に勤勉家であった父や叔父の玉木文之進たちから勉学をたたき込まれ、11歳のときには藩主の前で『武教全書』戦法篇三戦を講じるまでになりました。その後の諸国遊歴中もかなりの勉学を積んできていた松陰ですが、兵学だけにとどまらず倫理哲学、歴史、伝記、地理紀行、詩文、医学など多岐にわたる618冊の書物を、獄中にいた約1年余の間に読んでいます。

囚人の中には教養人もいたため、松陰は彼らから書道や句作の指導を受けています。獄中生活が半年を過ぎた辺りから、松陰を中心に獄内で勉強会が行われるようになりました。最初は松陰の講義形式を取っていましたが、数人が順番に教師となって講義する論講の形式で行われるようになりました。この勉強会の経験から、悪人も教育により善人に変わっていくと考えるようになった松陰は、獄制改革を提唱します。さまざまな改革点の中で注目すべきは獄中教育で、「人間には賢愚の差こそあれ誰にでも1つや2つの才能はあり、それをうまく引き出し根気良く教えていけば必ず立派な人間になれる」と唱えています。このときの獄中教育の成果が上がったため、松陰は悪を悔い改めた罪人たちの釈放運動にも在獄中から積極的に取り組んでいきました。

野山獄を出た松陰は松下村塾(安政3年「事件・風俗」参照)で、高杉晋作、伊藤博文(明治18年「人物」参照)など明治維新に活躍する人材の教育に従事しました。安政5年(1858)に松陰は、「日米修好通商条約」(安政5年「事件・風俗」参照)の調印を巡って激しく幕府を批判します。その過激な言動に対する罪で再び野山獄に収容され、翌年に江戸に移され幕府の尋問を受けますが、その際、自らの政治的信条を主張し、老中の間部詮勝暗殺計画などを自供したため死罪の判決を言い渡されます。松陰はこの判決に対し、「死に値する忠義を成し遂げていないうちは死ねない」という内容の手紙をしたためていますが、絶筆となった『留魂録』には人間の一生を四季の循環に伴う農事に例え、「人間の寿命には長かろうと短かろうとそれぞれ四季があり、自分にもその四季が備わっており、成長もし、実りもした。死を悲しむ必要はなく、収穫した籾が十分に実ったものかは、自分の志を継ぐ人々があとに続くかどうかで決まる」と記しています。30年という短い人生ではありましたが、松陰が最期に書き記したように、松陰のもとで学んだ門下生たちが明治維新で大きな活躍を遂げたことは、松陰の籾が十分に実っていた証しと言えるでしょう。

参考文献
『吉田松陰』(海原徹、ミネルヴァ書房、2003年)、『吉田松陰』(奈良本辰也、たちばな出版、2004年)、『国史大辞典』、『朝日日本歴史人物事典』
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