4月1日、久留米藩(福岡県)11代藩主有馬頼咸とその正室の精姫(将軍家慶の養女)との間に生まれた男児が逝去し、祐天寺に葬られました。法号は真光院殿玉露夢孩子です。
精姫は実子の真光院と玉峯院(安政元年「祐天寺」参照)を祐天寺に埋葬したほか、祐天上人の護符を拝服し、自身の位牌を祐天寺に永世安置するよう遺命したほど、祐天寺への信仰が篤かった人物です。
6月22日、将軍家慶が薨去し、祐天寺に位牌が納められました。7月26日に霊廟は増上寺の文昭院殿(6代将軍 家宣)との合祀と決まり、勘定奉行に霊廟修復と宝塔造営が命じられました。8月4日に埋葬され、21日には正一位太政大臣の官位と慎徳院殿天蓮社順誉道仁大居士の法号が贈られました。
10月11日、祐天寺10世祐麟が、北野善想寺(京都市上京区)塔頭にて遷化しました。
法号は相蓮社貌誉上人称阿祐麟和尚です。知恩院に祐良と合祀された墓があります。
祐麟は山城国下久世村(京都市南区)の出身で、百萬遍知恩寺(京都市左京区)54世祐水のもとで得度したのち、祐水の弟子にあたる鴻巣勝願寺(埼玉県鴻巣市)35世香堂の弟子となり、初めは祐心と称しました。文政2年(1819)4月頃には、増上寺山内の袋谷に祐心寮という自寮を持っていたことがわかっています。文政10年(1827)7月29日に、増上寺59世顕了(安政2年「祐天寺」参照)の御代役者となったことを機に祐麟と改名しました。そして、同12年(1829)9月27日、祐天寺10世として晋山しました。
祐麟は、祐天寺の歴史を記録するだけでなく、増上寺34世雲臥らが講じた『釈浄土二蔵頌義』に注解を施し、『五重本末講義』を書写して後世に残すなど、浄土宗の教学・伝法の相伝に大きく貢献しました。
11月12日、寺子屋師匠の小嶋伯融が逝去し、祐天寺に葬られました。
法号は円誉伯融居士です。
墓碑には伯融が手習いと算数を教えていたことや、師匠への恩に報いるために弟子たちが伯融の生前に建てた寿蔵(墓)であることが記されています。墓は硯に見立てた台石に、墨を模した棹石が建つデザインで、さらに台石の正面には筆のレリーフが施されています。
11月、松川泰清寺(長野県中野市)で、祐天上人筆と言い伝えられている名号が開帳されました。この名号は、宝永年間(1704~1710)に新城大善寺(愛知県新城市)6世帰誉から妙林法尼へ祐天上人の真筆として贈られたもので、安永3年(1774)に梅岡惣七郎らによって表装されました。
そしてこの年、惣七郎の関係者と思われる三州設楽郡真国村(同県同市)の梅岡三左ヱ門から泰清寺に寄進され、衆生教化のために開帳されたことが、裏書からわかります。現在は魚津大泉寺(富山県魚津市)に納められています。
この年、長野蓮台寺(長野県長野市)83世澄與は祐天上人名号軸を再表具しました。この名号軸は祐海が蓮台寺に寄進したものです。再表具の施主は須坂横町(同県須坂市)の布屋富沢新作で、両親の菩提のために浄財を寄進したことが裏書からわかります。
この年、磐城国相馬郡(福島県相馬市)の不乱院(現存せず)が、真海を中興の祖として再建されました。
不乱院は享保6年(1721)に小泉山供養院と宝林山不乱院の両寺を合わせて一心山不乱院となりました。
相馬興仁寺(同県同市)には、供養院に関する資料が2点伝わっています。1点は寛延3年(1750)に書かれた『北山念仏堂記』です。本書には「元禄年間に祐天上人が師檀通上人の菩提のために供養院に金30両と百萬遍数珠を寄付され、そのため檀通上人の位牌と祐天上人の木像がある」と記されています。またもう1点は文化3年(1806)に写された『不乱院縁起』で、「元禄10年、祐天上人が供養院念仏堂が荒廃しているのを聞いて、自筆の名号と金30両、大数珠を寄進し(中略)そのおかげでお堂が修復できた」と記されています。
不乱院は念仏道場として1万日回向と3万日回向を、供養院時代の万治元年(1658)から慶応2年(1866)まで勤めるなど、念仏供養を行っていたことが記録に残っています。
現在、念仏回向塔や歴代上人の墓は小泉慶徳寺(同県同市)に引き継がれています。
嘉永年間頃、小野新町村(福島県田村郡)に祐天上人名号石塔が建立されました。施主は心源道公で、雲官政氏の供養のために建てられたと思われます。名号石塔の右側面には雲官政氏の辞世と思われる歌「遙にも雲のうへまで届きつも西に望み残す後世のねの恵も」が刻まれています。
この年から安政3年(1856)に掛けて『八重撫子累物語』が出版されました。作者は笠亭仙果で、版元は蔦屋吉蔵の紅英堂です。この本は仙果が滝沢馬琴の読本『新累解脱物語』(文化4年「出版・芸能」参照)に補筆して合巻化したものです。挿絵は1編から4編までを歌川国貞が、5編を歌川国清が担当しました。
文政7年(1824)~安政5年(1858)
徳川家定は12代将軍 家慶(天保8年「人物」参照)の4男として側室お美津の方との間に生まれました。家慶の子どものほとんどは早世し、成人に達したのが家定だけであったため世子となりましたが、家定も生まれつき体が弱かったと言われます。癇が強く、しばしば痙攣を起こすことから正座していることさえ困難だったとも伝えられ、さらに天保11年(1840)17歳のときに天然痘を患ってからは、その傷痕を気にして人前に出ることを極端に嫌ったそうです。
また、家定は料理を趣味とし、これが家臣たちを悩ませました。貴人が台所に入るという行為そのものが認められない時代に、行く行くは幕府を背負って立つ身の家定が、サツマイモや豆を煮ては家臣たちに食べさせ、ついには饅頭やカステラなどの菓子作りまで楽しんだのです。また、父の家慶が病に倒れたときには自ら粥を作り、鍋に指を入れて炊き加減を調べたり、家慶が食べる様子を障子に穴を開けてのぞき見て喜んだりしたと伝えられています。
こうした家定の様子が人々の噂となり「家定は暗愚で赤子同然の知能」と酷評されました。しかしその反面、記憶力に優れ、蘭学に興味を示していたとされ、常識にとらわれない広い見識を持っていたとうかがい知ることもできます。幕府の権威が盤石で平和な世の中であったなら、家定は風変わりな殿さまとして安穏と暮らしていけるはずでした。しかし、時代はそれを許さなかったのです。家定が将軍となったこの年、ペリー来航によって日本は、開国と攘夷の間で激しく揺れていました。幕府が直面する未曾有の危機に対し、将軍には幕政を統括するだけの資質が求められたため、家定には苦悩する日々が続きました。
家定に降り掛かる不幸はこれだけではありませんでした。家定が18歳のときに結婚した鷹司政通の養女有姫が8年後に亡くなり、続いて正室となった一条忠良の息女寿明姫も1年足らずで亡くなったのです。相次ぐ正室の死はさまざまな憶測を呼び、家定が手を下したのではないかとする「家定発狂」の噂が流れました。また、家定に子どもがいなかったことから将軍継嗣問題も表面化します。
こうした状況の中、3人目の妻となったのが近衛忠煕の養女 篤姫(安政3年「人物」参照)でした。篤姫は以前は島津斉彬の養女で、実は次期将軍に一橋家の徳川慶喜を推すよう密命を受けていたとされます。そのため、紀州藩(和歌山県)の徳川慶福を跡継ぎにと考える一派と対立を起こし、幕閣のみならず大奥をも巻き込んだ将軍 継嗣問題へと発展していきました。
安政5年(1858)7月5日、家定は慶福を跡継ぎに定めると同時に、慶喜を推していた諸大名を処分しますが、皮肉にも家定が将軍らしい行動を見せたのはこれが最後となります。翌6日に35歳で薨去し、寛永寺に葬られました。幕末に起こった激動の波に翻弄され、孤独と病に耐えた生涯でした。