明顕山 祐天寺

年表

嘉永5年(1852年)

祐天寺

沢山、逝去

8月8日、田安御簾中附き小上臈の沢山が逝去し、祐天寺に葬られました。
法号は智性院殿惟誉円心大姉です。位牌と金30両が祐天寺に納められました。

参考文献
沢山位牌、『本堂過去霊名簿』

密善、遷化

8月14日、金戒光明寺(京都市左京区)54世密善が44歳で遷化しました。
法号は常蓮社賜紫順阿住誉和光密善大和尚です。

密善は以前、祐天寺に100両を寄進しており、位牌と墓もあることから深い関係がしのばれます。嘉永4年(1851)初秋、結城弘経寺(茨城県結城市)から金戒光明寺へ赴く際に祐天寺に立ち寄り、辞世の句を残しました。祐天寺の墓にはそのときの句「予歳過初老 奈何事世間 敢請遊浄刹 早晩観尊顔」と「うかりける 世をはいとひて なに事も たのしきくにの 迎へ侍なん」が刻まれています。

参考文献
密善墓、『本堂過去霊名簿』、『浄土宗大辞典』

治宝、逝去

12月7日、紀州藩(和歌山県)14代藩主徳川治宝が逝去し、祐天寺に法号が納められました。
法号は舜恭院殿一品前亜相大光正受源恭公です。

祐天寺地蔵堂本尊の厨子の中には、治宝によって2基の掛け位牌が納められています。1基は御簾中の貞恭院殿(田安家初代当主宗武の息女種姫)の菩提を弔うためのもので、もう1基は治宝の武運長久を祈る(寛政6年・文政10年「説明」参照)ためのものです。位牌の安置に際し、祐天寺には祠堂金200両が納められました。これらのことから、治宝が地蔵堂本尊の厨子の寄進者と考えられています。

参考文献
地蔵堂厨子内の位牌、『本堂過去霊名簿』、『南紀徳川史』第16冊(堀内信編、清文堂、1933年)

祐瑞、如来院に住す

この年、祐瑞が尼崎如来院(兵庫県尼崎市)の住職となりました。祐天寺の僧侶合祀塔に「念誉祐瑞上人」と刻まれています。

参考文献
僧侶合祀塔、「如来院文書」(如来院)

大岡家の名号

この頃、豊後国臼杵(大分県臼杵市)の町人加島英国は、臼杵の名所や名物などを備忘録として書き留めていました。逸話や伝承も採録されており、「大岡弥三右衛門家には野干(キツネ)の憑き物などが落ちるという祐天上人の名号が伝わっている」と書かれています。

参考文献
『桜翁雑録』(加島英国撰著、佐野武夫解読・発行、1983年)

伝説

名号にて命助かる

7月12日、白金村鷺森神明宮(港区)の辺りに住み、紙漉を商売としている男が、呉服屋に頼まれた商品を他の家へ届ける途中、日が暮れて盗賊に出遭い白刃で脅されました。懐中にあった祐天上人の六字名号と大山不動尊の画像を思い浮かべて祈念したところ、意識を失いました。しばらくして気が付き家に帰ってから、その2品を拝したところ、2品ともに刃の痕が数か所残っていたということです。

参考文献
『武江年表』