2月24日、福岡藩(福岡県)10代藩主黒田斉清が逝去し、祐天寺に法号と金7両が納められました。
法号は乾龍院殿前筑前国太守少将利山道見大居士です。
また、6月7日には斉清の息女の純子が逝去し、同じく法号が納められました。法号は昌光院殿久岩妙映大姉です。2人の法号は、斉清の養子であり純子の夫の11代藩主長溥により納められました。
3月、市原称念寺(千葉県市原市)に祐天上人名号付き万霊供養塔が建立されました。供養塔が建立されたのは称念寺25世明誉の代と考えられます。
4月、御油講の位牌が祐天寺に奉納されました。正面には祐興の名号が彫られ、裏面には「永代御油料 金貳拾五両 為先祖代々菩提」と、世話人として四日市町(千代田区)、本船町(中央区)などの講員20人の名が記されています。
5月15日、神奈川慶運寺(横浜市神奈川区)の住職であった愚志言が遷化しました。
法号は順蓮社問誉上人全阿愚志言和尚です。愚志言は祐天寺11世祐梵の弟子でした。
9月8日、裕宮(田安家3代当主斉匡の御簾中)のお附きの皎月院が逝去し、祐天寺に葬られました。
法号は皎月院満誉聖成祐慧法尼です。祠堂金として金30両が寄進されました。
皎月院は鍼博士の藤木成練の息女で、細井と呼ばれていました。藤木家は典薬寮(宮内省に属し、医療業務全般と調剤などをつかさどる)の鍼博士として宮家や摂家に仕えました。皎月院は田安家老女の三輪山(天保10年「祐天寺」参照)とともに逆修を受けています。
9月29日、祐天寺の諸堂修復の願書や許可に関する証書などが寺社奉行の脇坂安宅より幕府へ提出され、『地子古跡寺社帳』に記録されました。
『地子古跡寺社帳』にはこのほか、嘉永2年(1849)12月に老朽化を理由として取り壊された位牌所(瑞泰院常念仏堂。明和6年「祐天寺」参照)が再建されたことなども記されています。
冬、芝天徳寺(港区)39世澤栄が、祐天寺常行念仏堂の什物として香盤台座を寄進しました。
澤栄はこのほかにも、永代祠堂供養料50両とともに澤栄の法類にあたる芝最勝院(同区)の関係者を合祀した位牌を奉納し、さらに4霊の施主となって祠堂金100両を祐天寺へ納めました。