正月29日、天親院(有姫。嘉永元年「祐天寺」参照)の中臈であった満昌院が逝去し、祐天寺に法号が納められました。法号は満昌院殿栄誉冨山寿宝法尼です。
満昌院は名を里ちと言い、のちに芝山とその局の福野とともに合祀された位牌が祐天寺に納められました。
芝山とは冷泉為泰の息女で、広大院(茂姫。弘化元年「祐天寺」参照)の大上臈でした。芝山は嘉永4年(1851)に逝去し、その法号は芝苑院香誉静山貞照法尼です。
6月6日(公には24日)、寿明姫(のちの13代将軍家定の御簾中)が逝去し、祐天寺に法号が納められました。
法号は澄心院殿珠現円照大姉です。
寿明姫は摂家一条忠良の息女で、名を秀子と言いました。
7月、祐興は仏蔵作事のお礼として、伊豆松崎(静岡県賀茂郡)の大工斉藤利八に祐天上人名号を贈りました。
仏蔵の作事は、前年の6月27日から始まりました。梁間4間(約7.3メートル)、桁行6間(約11メートル)、高さ4丈(約12メートル)の大きさで、正面および左右には6尺(約1.8メートル)のひさしが付き、さらに建物の後ろには梁間3間(約5.5メートル)、桁行6間の下屋が付けられていました。
当時、祐天寺では諸堂の修復を行っており、この仏蔵は仏像類の仮安置所として建立され、諸堂の修復完了に伴い取り壊されたと考えられます。
11月、祐天寺什物の『般若心経』が修補されました。題紙には「光明皇后御筆 袖裏藤原経隆ノ絵」とあり、箱書には「後宇多院勅筆」とあります。修補は大経師の田寛子が行いました。