明顕山 祐天寺

年表

嘉永元年(1848年)

祐天寺

仙寿院、逝去

2月29日、生実藩(千葉県)8代藩主森川俊知の正室である仙寿院が逝去し、祐天寺に葬られました。
法号は仙寿院殿天誉皓月清光貞照大法尼です。

天保9年(1838)に亡くなった俊知と合祀された位牌とともに、位牌の前に置く生花立てや香炉なども、祐天寺に寄進されました。

仙寿院は大溝藩(滋賀県)8代藩主分部光実の息女で、名を八重と言いました。天保8年(1837)には仙寿院実母の法号(桂雲院殿心月妙鏡大禅定尼)も祐天寺に納められています。

参考文献
仙寿院位牌、『本堂過去霊名簿』、『三百藩藩主人名事典』2

大巖寺の名号軸に、裏書

5月に祐興が、生実大巖寺(千葉市中央区)の祐天上人名号軸に、真筆である旨を裏書きしました。

参考文献
祐天上人名号軸裏書(大巖寺)

有姫、逝去

6月10日、有姫(のちの13代将軍家定の御簾中)が逝去し、祐天寺に法号と位牌が納められました。
法号は天親院殿贈従二位有誉慈仁智誠大姉です。遺骸は上野寛永寺(台東区)に葬られました。

有姫は鷹司政煕の息女で、名を任子と言います。政煕の兄である政通の養女となって家定に嫁しました。

参考文献
有姫位牌、『天正資料』、『徳川諸家系譜』1

篤弥太、逝去

6月29日、土佐藩(高知県)13代藩主山内豊熈と側室平岡民(天保13年・明治6年「祐天寺」参照)との間に生まれた篤弥太が2歳で逝去しました。民が祐天寺に信仰を寄せていたことから、祐天寺に篤弥太の法号が納められました。法号は善哉院殿玉鳳摩頂禅童子です。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『皆山集』(平尾道雄編、高知県立図書館、1976年)

豊熈、逝去

7月10日、土佐藩13代藩主山内豊熈が34歳で逝去し、祐天寺に法号が納められました。
法号は養徳院殿後鏡視倹大居士です。

豊熈は先代藩主豊資の長男に生まれ、天保14年(1843)29歳のときに家督を継ぎました。歴代藩主の中でも名君と謳われ、常に読書や武芸の練習に励んでいたと伝えられます。西洋砲術の優れている面を取り入れるため、藩士を高島流砲術の下曽根金三郎に入門させました。また、自ら率先して倹約に努め、天保の藩政改革を行いましたが、山内家分家の反対に遭い改革は挫折します。しかし、それにもめげず、藩士たちの教育を充実させるなど、藩主在任は5年余りの短い期間でしたが藩政の向上に努めました。

正室の祝姫〔薩摩藩(鹿児島県)10代藩主島津斉興の息女〕は才知利発で賢夫人との誉れ高い人物でした。豊熈逝去ののちは智鏡院と号して念仏三昧の生活に入り、南無阿弥陀仏の6字を冠した歌を詠みました。また、祐天寺に三界万霊塔を建立(安政元年「祐天寺」参照)しています。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『土佐史談』17号(土佐史談会編集・発行、1926年)

佐比内に名号石塔、建立

9月16日、佐比内村(岩手県紫波郡)の人々によって村内に、祐天上人名号石塔が建立されました。
施主は金田一与右衛門、石工は源七です。

参考文献
祐天上人名号石塔(紫波町佐比内)、『岩手の石碑』(臼澤正充、臼澤信行編集・発行、2004年)

瀧浦、逝去

10月6日、田安家の老女瀧浦が逝去し、祐天寺に葬られ祠堂金30両が納められました。
法号は信月院清誉浄貞祐凉法尼です。

瀧浦は、田安家3代当主斉匡の御簾中として閑院宮家から嫁いだ裕宮のお附きと考えられます。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『徳川諸家系譜』3
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