明顕山 祐天寺

年表

弘化04年(1847年)

祐天上人

お定の方、逝去

正月25日(公には2月4日)、将軍家慶の側室お定の方が逝去し、祐天寺に法号が納められました。法号は清凉院殿浄誉香潔妙薫大姉です。

お定の方は御小姓組の押田勝長の娘で、家慶生母の香琳院(天保8年「人物」参照)の姪にあたります。祐天寺の『本堂過去霊名簿』には「当寺格別御引立恩怙之霊」とあり、香琳院や家慶御台所の楽宮(天保11年「祐天寺」参照)と同様に祐天寺に信仰を寄せた女性でした。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『徳川諸家系譜』1・2

願生寺六地蔵塔、建立

2月24日、高輪願生寺(港区)に六地蔵塔が建立されました。8面体の塔身部分に六地蔵が浮き彫りにされ、正面に祐天名号が刻まれています。「三界六道四生万霊存亡離苦同生浄土」と刻まれており、先祖代々の業障消滅や現当二世の安全などを願って建てられたものと思われます。

参考文献
祐天名号付き六地蔵塔(願生寺)

東光寺名号石塔、建立

5月、安土東光寺(滋賀県蒲生郡)に当時の住職の諦真によって祐天上人名号石塔が建立されました。

東光寺には、伝内流あるいは建部流と呼ばれる書流派の始祖となった建部伝内が葬られています。伝内は織田信長や豊臣秀吉から扁額の揮毫を求められるほどの能書家でした。東光寺境内には伝内の像を祀った伝内堂もあります。

参考文献
祐天上人名号石塔(東光寺)、『民俗文化』510号号外(菅沼晃次郎編、滋賀民俗学会、2006年)

や組位牌、奉納

7月13日、江戸町火消や組鳶中の位牌が祐天寺に奉納されました。「や組鳶中之面々先祖代々恩怙怨敵霊哀愍怨敵各々業障消滅意願円満相続安全」と記されています。

参考文献
や組鳶中位牌

実相寺名号石塔、建立

7月、清水実相寺(静岡市清水区)に祐天名号石塔が建立されました。この石塔は三界万霊塔で、施主の江川政八郎と山田惣左エ門がそれぞれの先祖代々の菩提のために建立したものと思われます。

参考文献
祐天名号石塔(実相寺)

伝説

剣難除けの奇瑞

3月、上目黒村(目黒区)の島崎忠左衛門が、祐天上人の名号により盗賊の刃から逃れるという奇瑞を得ました。

事件は忠左衛門が、日頃より出入りを許されていた伊東修理太夫の邸から、金数両をいただいて家へ帰る途中に起こりました。桜田門近くにある邸を出てまもなく、忠左衛門は武士風の2人組の男が付いてくるのに気付きます。これは懐中の金をねらっているに違いないと考えた忠左衛門は、なんとか賊を引き離そうとしますがうまくいきません。家に近付くにつれしだいに人通りが少なくなったため、忠左衛門は常日頃から信仰していた祐天上人の六字名号を守り袋から出して髻に挟んで帰路を急ぎました。

いよいよ人通りが絶えたところで、賊が忠左衛門に斬り付けてきました。忠左衛門は大声で叫びながら無我夢中で逃げ、親交のある青山善光寺(港区)門前にある吉水屋金次という者の家へ逃げ込んだのです。

無事に家に帰り着いた忠左衛門が翌朝、昨夜は賊から斬り付けられたと思ったのに全く無傷であることを怪訝に思い、ふと思い付いて髻に挟んでいた名号を取り出して見ました。すると、不思議なことに「弥」の字の頭に刀傷が残っていたのです。これも信心のたまものだと感激した忠左衛門は、お礼にと供を引き連れて祐天寺へ参詣しました。祐興にこの奇瑞を話し、刀傷のある名号は祐天寺へ納めて新たな名号をいただき、さらに熱心な信者になったということです。

参考文献
『弘化四年 丁未三月廿二日記事』

寺院

善光寺開帳中に大地震

3月9日から常念仏6万5、000日の回向開帳が長野善光寺(長野県長野市)で行われました。全国各地から参詣の人々が集まり、善光寺の街はもとより、近辺の旅籠(旅館)も参拝客でいっぱいでした。

24日の夜に大地震が善光寺一帯を襲いました。夜明けまでに80回ほどの揺れが続き、地震後には火災も発生して、圧死や焼死によりいく千もの人々が亡くなりました。揺れは4月5日までやむことなく続き、山崩れ、洪水なども引き起こしたと言われています。

この地震に関連して次のような話が残っています。開帳前、善光寺の門前に大きな高札を立てたところ、一夜にしてなくなってしまいました。再び高札を立てましたが、同じようになくなってしまいました。そのため3度目は昼夜にわたり番人を付けたと言います。あとになって、この不思議な事件は善光寺の本尊が地震を知らせたのではないかと噂されました。

参考文献
『地震後世俗語之種』(永井善左衛門、「善光寺大地震」、小林計一郎監、銀河書房、1985年)、『武江年表』

風俗

霊台橋完成

肥後国下益城郡砥用手永(熊本県下益城郡)を流れる緑川に霊台橋が架けられました。橋長37.5メートル、江戸時代最大の石橋です。緑川は熊本県下では球磨川に次ぐ流域面積を誇る川です。

以前は渡し船で川を渡っていましたが洪水が多く、一度大雨が降れば船の往来はできず、緊急の場合は矢文で対岸と連絡を取っていました。そのような住民の窮状を見兼ね、文化13年(1816)頃に総庄屋の三隅明寿が木橋を架けます。

木橋が架けられてからも橋自体が洪水で流されたり腐ったりして、架設から天保12年(1841)までの22年間で5回も架け替えを行っています。そのため、付近の山の木々をほとんど伐り尽くしてしまいました。後任の総庄屋の篠原善兵衛は大工の伴七に命じて石橋を架けることとしました。当時、アーチ石橋の技術は秘伝となっており、技術習得のため長崎へ派遣された伴七は、池辺長十郎から教えを請うために彼の屋敷の門前で座り込みを続けなければなりませんでした。

伴七は苦労して手に入れた秘伝を用いて石橋の設計を行いました。工事に携わったのは、種山村(同県八代市)の石工である卯助、宇一、丈八の兄弟でした。橋は弘化3年(1846)の着工から7か月という驚異的な早さで完成しました。石工の丈八はのちに通潤橋(同県上益城郡)、日本橋、および皇居の二重橋の建造にも携わっています。

霊台橋は160年近く経った今も当時の面影を残し、文化財として保護されています。


学習院、開講

3月、京都御所の建春門外に公家の教育機関として学習院が開講されました。頽廃が目立つ公家社会の風儀の乱れを直し、教養を高める目的で光格天皇が企図したもので、孝明天皇により開講されます。

桃園天皇の生母である開明門院御殿跡に建てられた学習院では、およそ1、600平方メートルの敷地に講堂、伝奏(学長)や学頭たちの詰所、文庫(書庫)などが並び、主に聴衆と呼ばれる15歳以上40歳未満の堂上・非蔵人の子弟を対象として講義が行われました。学習内容は四書五経を経典とする儒学が中心でしたが、嘉永2年(1849)からは有職故実などの和学(国学)の講義も行われるようになります。ペリー来航後には、当時の学習院伝奏だった三条実美(文久3年「人物」参照)が国事御用掛に任命されて尊王攘夷(慶応元年「解説」参照)運動の柱となったことから、学習院がその運動の集会所としての役割を持つようになっていきました。

参考文献
『日本の石橋』(山口祐造・戸井田道三、平凡社、1978年)、『石橋は生きている』(山口祐造、葦書房、1992年)、『火の国と不知火海』(松本寿三郎ほか編、街道の日本史51、吉川弘文館、2005年)、『熊本県の歴史』(松本寿三郎ほか、山川出版社、1999年)、『学習院の百年』(学習院編集・発行、1978年)

芸能

『尾上梅寿一代噺』初演

7月25日より、市村座で歌舞伎『尾上梅寿一代噺』が初演されました。初代尾上松緑33回忌追善と3代目尾上菊五郎一世一代名残狂言として上演されたものです。

菊五郎は嘉永2年(1849)閏4月24日、66歳で没しました。立役で早替わりの名人でした。

参考文献
『日本演劇史年表』

人物

阿部正弘 文政2年(1819)~安政4年(1857)

阿部正弘は福山藩(広島県)11代藩主正精の6男として、現在の皇居二重橋前広場(千代田区)の辺りにあった老中官邸で生まれました。父に似て物腰が柔らかく、また外見は母に似て色白で目鼻立ちの整ったかわいらしい子どもだったと伝えられています。末子であったことから父の愛情を一身に受け、その利発さゆえに周囲の目も自然と正弘に集まり、誰もがその将来を期待していました。この幼少期が正弘の人生の中で最も穏やかで幸福な時代であったと思われます。正弘が8歳のときに父は亡くなり、兄正寧のもとで大切に養育されたのち、天保7年(1836)12月に病弱な正寧に代わって18歳で福山藩主となりました。

当時の幕閣においての最高職は老中です。老中になるにはさまざまな条件があり、定員は4、5人、任期は数年から10年ほどと決まっており、大変狭き門でした。そのため老中昇格の可能性のある者は必死にあれこれと策を講じるわけですが、その中にあって阿部家は恵まれていたと言えます。

阿部家は三河国以来の徳川家譜代の重臣で、父の正精を含めて5人の老中を輩出してきました。本来は奏者番、寺社奉行、京都所司代、大坂城代、西丸老中、本丸老中と順に昇進するのですが、正弘は25歳で寺社奉行から一気に本丸老中に昇進します。史上最年少の老中誕生でもありました。

正弘が老中になった頃の日本は、天保の改革(天保12年「事件・風俗」参照)が失敗に終わり、天災や飢饉、一揆などの国内の問題と、外国船来航の危機感に揺れる「内憂外患」の時代です。このような時代に若くて優秀な正弘が老中に抜擢され、その才能をいかんなく発揮できたことは、本人ばかりでなく、その後の日本にとっても幸運なことでした。

正弘はよく時勢を読み、国内の混乱を鎮めるとともに、海防掛(弘化3年「解説」参照)を設置して海岸防備に尽力します。さらには御禁制であった軍艦の建造を働き掛けるなど、軍備の拡大にも積極的に取り組みました。近い将来に日本が開国しなければならなくなることを、正弘は知っていたのでしょう。

時には「八方美人」「抱き込みと根回しの名人」などと揶揄されることもありましたが、温厚な性格で人の意見によく耳を傾け、信頼関係を築くことが得意でした。緊迫しつつあった外交問題に対しても幕府独裁ではなく、御三家や雄藩大名との連携を保ち、朝廷をも取り込んで挙国一致の体制を作り上げようとしていたのです。ペリー来航(嘉永6年「事件・風俗」参照)に際しても、マシュー・ペリーが持参した国書を諸大名に見せて広く意見を求めました。この幕府始まって以来の試みは当たり、強硬論者を無理強いせずに「開国やむなし」との考えに導くことに成功。「日米和親条約」を締結して、日本は戦火を免れたのです。

そのほかにも講武所や蕃書調所、および長崎海軍伝習所(安政2年「事件・風俗」参照)を設置・開所し、西洋の文化や技術の習得を目指すなど、時節に即した政治手腕には目を見張るものがあります。しかし、開国以来の激務と心労がたたって肝臓を病み、39歳の若さで急死しました。

参考文献
『開国のとき』(上條俊昭、東洋経済新報社、1996年)、『維新前夜』(童門冬二、講談社、1997年)、『三百藩藩主人名事典』4、『国史大辞典』
TOP