正月25日(公には2月4日)、将軍家慶の側室お定の方が逝去し、祐天寺に法号が納められました。
法号は清凉院殿浄誉香潔妙薫大姉です。
お定の方は御小姓組の押田勝長の娘で、家慶生母の香琳院(天保8年「人物」参照)の姪にあたります。祐天寺の『本堂過去霊名簿』には「当寺格別御引立恩怙之霊」とあり、香琳院や家慶御台所の楽宮(天保11年「祐天寺」参照)と同様に祐天寺に信仰を寄せた女性でした。
2月24日、高輪願生寺(港区)に六地蔵塔が建立されました。8面体の塔身部分に六地蔵が浮き彫りにされ、正面に祐天名号が刻まれています。「三界六道四生万霊存亡離苦同生浄土」と刻まれており、先祖代々の業障消滅や現当二世の安全などを願って建てられたものと思われます。
5月、安土東光寺(滋賀県蒲生郡)に当時の住職の諦真によって祐天上人名号石塔が建立されました。
東光寺には、伝内流あるいは建部流と呼ばれる書流派の始祖となった建部伝内が葬られています。伝内は織田信長や豊臣秀吉から扁額の揮毫を求められるほどの能書家でした。東光寺境内には伝内の像を祀った伝内堂もあります。
7月13日、江戸町火消や組鳶中の位牌が祐天寺に奉納されました。「や組鳶中之面々先祖代々恩怙怨敵霊哀愍怨敵各々業障消滅意願円満相続安全」と記されています。
7月、清水実相寺(静岡市清水区)に祐天名号石塔が建立されました。この石塔は三界万霊塔で、施主の江川政八郎と山田惣左エ門がそれぞれの先祖代々の菩提のために建立したものと思われます。
3月、上目黒村(目黒区)の島崎忠左衛門が、祐天上人の名号により盗賊の刃から逃れるという奇瑞を得ました。
事件は忠左衛門が、日頃より出入りを許されていた伊東修理太夫の邸から、金数両をいただいて家へ帰る途中に起こりました。桜田門近くにある邸を出てまもなく、忠左衛門は武士風の2人組の男が付いてくるのに気付きます。これは懐中の金をねらっているに違いないと考えた忠左衛門は、なんとか賊を引き離そうとしますがうまくいきません。家に近付くにつれしだいに人通りが少なくなったため、忠左衛門は常日頃から信仰していた祐天上人の六字名号を守り袋から出して髻に挟んで帰路を急ぎました。
いよいよ人通りが絶えたところで、賊が忠左衛門に斬り付けてきました。忠左衛門は大声で叫びながら無我夢中で逃げ、親交のある青山善光寺(港区)門前にある吉水屋金次という者の家へ逃げ込んだのです。
無事に家に帰り着いた忠左衛門が翌朝、昨夜は賊から斬り付けられたと思ったのに全く無傷であることを怪訝に思い、ふと思い付いて髻に挟んでいた名号を取り出して見ました。すると、不思議なことに「弥」の字の頭に刀傷が残っていたのです。これも信心のたまものだと感激した忠左衛門は、お礼にと供を引き連れて祐天寺へ参詣しました。祐興にこの奇瑞を話し、刀傷のある名号は祐天寺へ納めて新たな名号をいただき、さらに熱心な信者になったということです。