明顕山 祐天寺

年表

弘化03年(1846年)

祐天上人

了雄、遷化

2月23日、田戸聖徳寺(神奈川県横須賀市)13世了雄が遷化しました。法号は哀蓮社愍誉上人輪阿梅心了雄老和尚です。了雄は、祐天寺16世霊俊の得度の師でした。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

5月、尾道信行寺(広島県尾道市)の祐天上人名号軸が修補されました。信行寺10世得誉の代のことで、施主は沼隈悟真寺(広島県福山市)14世梁誉です。悟真寺は信行寺の本寺にあたり、悟真寺で修行した僧侶が信行寺の歴代住職を勤めていたそうです。

この名号は祐天上人が小石川伝通院(文京区)在住中〔宝永元年(1704)~正徳元年(1711)〕に書いたものです。現在は、瀬戸極楽寺(広島県福山市)に保管されています。

参考文献
祐天上人名号軸裏書(極楽寺)

水屋と水盤、建立

6月24日、祐天寺の水屋が上棟され、天井の中央には竜の彫刻が施されました。棟札には祐興の名号とともに役僧の学翁や納所の祐巖、大工棟梁の石川常蔵と西宮清忠の名が記されています。 

また、翌月には水盤が小松石で造られ、正面に「浄水」の文字が彫られました。揮毫者の龍眠は本名を正木四郎左衛門と言い、浅草雷門前で海苔商を営む江戸時代後期の書家です。 

その後、昭和58年(1983)の法然上人降誕850年・祐天上人誕生350年記念慶讃事業の際に、水屋の屋根の葺き替え工事が行われました。

参考文献
水屋棟札、水盤、『近世人名辞典』3(漆山天童編、青裳堂書店、1987年)

宝泉寺に名号石塔、建立

9月、下楠宝泉寺(三重県多気郡)の門前に祐天上人名号石塔が建立されました。「植誉上人代」と刻まれており、宝泉寺28世植誉巌厚の代の建立とわかります。 

この石塔は、宝永2年(1705)に祐天上人が訪れた際(宝永2年「伝説」参照)に授与した名号を基に、建立されたと伝えられています。地域の住民には「ゆうてんさま」と呼ばれて親しまれており、並んで建てられた常夜燈に毎晩欠かさず行われる献灯は、今日にも受け継がれています。

参考文献
祐天上人名号石塔(宝泉寺)、『大台町史』通史(大台町史編さん会編、大台町、1996年)

寺院

尊超法親王、授戒

2月1日、知恩院宮門跡の尊超法親王(嘉永5年「寺院」参照)が東宮(のちの孝明天皇)に、三帰十善戒(「三帰」とは、仏法僧の三宝に帰依すること。「十善戒」とは、世俗の人が守るべき10の戒め)と日課念仏を授けました。 

尊超法親王は5月にも東宮に円頓戒(速やかに完全で円満な人格を形成する戒律)を授けました。

参考文献
『仏教語大辞典』(中村元、東京書籍、1981年)、『浄土宗大年表』、『浄土宗大辞典』

風俗

ビッドル、来航

閏5月27日、アメリカ東インド艦隊司令長官のジェームス・ビッドルが、軍艦2隻を率いて浦賀(神奈川県横須賀市)に来航し、開国と通商を要求しました。浦賀奉行の急報を受けた幕府は、阿部正弘(弘化4年「人物」参照)を中心とする海防掛(「解説」参照)に協議させたうえ、断固その要求を拒絶する姿勢を示します。すると意外なことに、ビッドルはあっさりと引き下がり、6月7日に退去しました。

実はビッドルは日本の様子を探るために派遣されたにすぎませんでした。当時のアメリカは日本近海に生息するマッコウクジラを捕獲するため、日本を寄港地としてねらっていたのです。しかも、偵察を目的とした今回の一件は、アメリカに多くの情報を与えることになりました。かたくなな鎖国政策により、日本が外国との交渉に不慣れであること、日本の反対を押し切って測量を行っても攻撃してこないこと、優しい顔を見せれば軽くあしらい、怖い顔を見せればあわてふためいて譲歩する日本の役人の気質などです。圧倒的な武力による威嚇と強硬な外交姿勢が、日本を開国させる唯一の方法とアメリカは判断し、以後の日米交渉ではこの方針が貫かれることになります。


護持院ヶ原の敵討

8月6日の夕刻、本庄茂平次が護持院ヶ原(千代田区)で熊倉伝十郎とその助太刀の小松典膳に討たれました。敵討です。 

事の発端は8年前の天保9年(1838)12月23日にさかのぼります。伝十郎の伯父井上伝兵衛が友人宅からの帰り道、下谷御成小路(台東区)に差し掛かったところで背後から襲われ惨殺されるという事件が起きました。さらに、伝兵衛の弟で伝十郎の父の伝之丞は、事件の数日前に借金の取立てを巡って茂平次と伝兵衛が口論していたという話を聞き、敵討に立ち上がりましたが返り討ちに遭ってしまったのです。茂平次に伯父のみならず父までも殺害された伝十郎は、江戸三奉行に敵討の届出を提出すると、かつて伝兵衛に剣術を習っていた典膳に助太刀を頼み、茂平次のあとを追いました。 

茂平次は長崎の生まれで、鳥居耀蔵(嘉永4年「人物」参照)の手下となり、根も葉もない罪を着せて高島秋帆(天保13年「人物」参照)を投獄した事件に関与していました。しかし、ちょうどこの頃、茂平次は耀蔵の機嫌を損ねて長崎に帰っていたのです。伝十郎がいくら江戸を探しても見つかるはずもなく、無情にも月日だけが流れていきました。 

転機が訪れたのは弘化2年(1845)のことです。高島秋帆疑獄事件に連座する形で、茂平次が長崎で捕らえられ、江戸の評定所に送られてきました。その後に茂平次は遠島と決まりますが、伝馬牢放火事件(弘化2年「事件・風俗」参照)の際にいったん解放されても正直に牢へ戻ったので、罪を減じられて中追放となります。これが茂平次にとって運命の分かれ道になりました。茂平次が護持院ヶ原で解き放されると知った伝十郎と典膳の2人は、先回りをして伯父たちの無念を晴らすことに成功したのです。 

茂平次が政界の黒幕とされる耀蔵の家来であったことから大きな騒ぎとなり、江戸市中はしばらくこの敵討の話で持ち切りとなりました。

参考文献
『幕末海防史の研究』(原剛、名著出版、1988年)、『黒船と幕府』(濱屋雅軌、高文堂出版社、1984年)、『敵討』(平出鑑二郎、文昌閣、1909年)、『江戸の大変』地の巻(稲垣史生監、平凡社、1995年)、『日本全史』

出版

『微味幽玄考』

『微味幽玄考』は、諸国で農村改革を行った大原幽学の主著です。農民たちの学習用テキストであったため出版はされませんでしたが、奥書からこの年に4巻まで脱稿していたことがわかります。 

全11巻とする予定でしたが、現存しているのは門人が書き写していた7巻までです。なかでも有名なのが別名「子育篇」と呼ばれる6巻で、幽学はこの巻で人の本性というものは遺伝ではなく育つ環境にあると説いています。今では当たり前と思われる考え方ですが、生まれながらに身分が決まっていた封建社会においては新鮮な意見でした。 

幽学の思想は、道徳と経済の調和を基本とした性学または性理学と呼ばれるものです。幽学は農民たちに「人と人との和」を大切にするよう説きました。村と村との境界を越えさせ、ともに農地を耕し、ともに学ぶことで1つの新しい村を作ろうとしていたのです。しかし、こうした農民たちの団結力が一揆につながると恐れた幕府により幽学は捕らえられたため、本書の全容を知ることはできなくなってしまいました。

参考文献
『二宮尊徳 大原幽学』(日本思想体系52、中井信彦ほか校注、岩波書店、1973年)、『古典の事典』14(古典の事典編纂委員会編、河出書房新社、1986年)、『朝日日本歴史人物事典』

人物

江川英龍 享和元年(1801)~安政2年(1855)

英龍が生を受けた江川家は鎌倉時代から続く家柄です。徳川家康の側室お万の方が江川家の出身であったことから、江川家は徳川家から厚遇されるようになり、代々伊豆(静岡県)韮山代官として天領を守りました。英龍はその36代目当主にあたります。長兄が24歳の若さで病没したため、次男の英龍が嫡子となりました。家督を継ぐ前の英龍は江戸に遊学して剣術を学び、また尚歯会(天保3年「解説」参照)のメンバーと交友を深めてさまざまな知識を吸収するなど、比較的悠々自適な生活を送っていたと思われます。 

英龍が代官職を継いだのは天保6年(1835)、35歳のときです。折しも天保の大飢饉で領民の生活は大変苦しいものとなっていました。そこで英龍は低い利息で貸付金を出したり、豪農層に貯蔵している米を放出させるなど、領民救済のためにあらゆる対策を講じました。また自らも徹底した倹約を行い、食事は常に一汁一菜で日用品はすべて手作りし、娘の硯箱も菓子折で代用したと言います。こうして領民への負担を少しでも軽くしようと努めたのです。これ以外にも、領内で種痘の接種(嘉永2年「事件・風俗」参照)をいち早く実施するなど、英龍の施政は常に領民の立場に立ったものでした。人々は英龍を敬愛し「世直し江川大明神」と讃えたと言います。 

一方で英龍は、モリソン号事件(天保8年「事件・風俗」参照)などから日本の海防に危機感を抱いていました。支配地に江戸湾へ通じる沿岸を多く持っていたことや、渡辺崋山(天保12年「人物」参照)などの蘭学者との交流に大きな影響を受けたのでしょう。幕府に高島秋帆(天保13年「人物」参照)の西洋砲術を採用するよう働き掛けて自らもこれを学び、その普及のために私塾の韮山塾を開くなど、英龍は積極的に軍備の強化に努めました。そのほか、品川台場(港区)や反射炉の造築、着発弾(着弾と同時に爆発する破裂弾)の発明、さらに農兵軍の組織の企図や兵糧としてパン(天保12年「解説」参照)を採用するなど、英龍は軍の近代化に多大な功績を残しました。今でも日本中で使われている「気を付け」や「右向け右」などの号令も、英龍が定めたものと言われています。 

嘉永6年(1853)にマシュー・ペリーが来航すると、英龍はペリーとの交渉に関する評議や江戸湾防備の朝議に参席するようになります。江戸湾見分などの出張が続き、さらにそれ以外の日は連日江戸城へ登城し、夜遅くまで訪問客の対応や書類の整理などに追われ、英龍の生活は多忙を極めました。風邪を引き過労のために倒れてもなお休むことを許されないという激務が、54歳という決して若くはない身体に応えたのでしょう。安政2年正月16日、英龍は55年の人生を閉じました。その死は、領民や門人はもとより、水戸藩(茨城県)9代藩主徳川斉昭(天保元年「人物」参照)や老中阿部正弘(弘化4年「人物」参照)をはじめ諸大名の間でも惜しまれたと言われており、時代に求められていた人物だったことがうかがえます。

参考文献
『江川坦庵』(人物叢書、仲田正之、吉川弘文館、1985年)、『韮山町史』11(韮山町史編纂委員会編、韮山町史刊行委員会、1996年)
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